「依頼来ないね」
正午が目の前に迫ったヤエガキ探偵事務所でソラが暇そうに呟いた。
「う〜〜ん、午前中に依頼が来ないと、今日はもう望みが薄いかな」
ピヨちゃんも残念そうに呟き、ため息を漏らす。
「そうだ、ピヨちゃん。今からお買い物に行かない?」
「お買い物?」
突然の提案にピヨちゃんは困惑し、ソラは上機嫌で続ける。
「昨日ね、帰りにお洒落な雑貨屋さんの入ったビルを見つけたの。その時は時間がなくってすぐに帰ったんだけど、依頼がないなら今から行こうよ」
目を輝かせるソラにピヨちゃんは数秒考える。
ソラから買い物の誘いがあるのは初めてで、いつもは自分から事務所の消耗品の買い出しを頼む。
それだけソラが心を許したのだとピヨちゃんは解釈し、笑顔で頷いた。
かくして一人と一体は炎天下の新宿の街に繰り出した。
気分が高揚していたソラ達はテレビを消すのを忘れ、事務所のリビングには虚しくテレビの音が響いていた。
『速報です。たった今、テロ情報局からテロの犯行声明が発表されました。本日正午、新宿にて爆破テロを行うと発表があり、新宿にお住まいの皆様は外出を控えるように……繰り返します』
炎天下の中、ソラは携帯を首からぶら下げて意気揚々と目的の雑貨屋を目指していた。
事務所からは歩いて二十分程度の場所にあり、駅から少し離れているので人込みをそれほど酷くない。
いまだに東京の人の多さに慣れないソラにとっては立地的にも恵まれた雑貨屋だ。
「着いたよ、ピヨちゃん」
十五階建て雑居ビルの壁面には多くの立体広告が浮かび上がり、ソラが見つめるのはグリーンとベージュのストライプの上に達筆な文字で「ざっか」と書かれた広告だ。
瞳を爛々と輝かせながらソラはビル内に入り、エスカレータで十階に上がる。
エスカレータを降りたソラの目の前にその雑貨屋はあった。
同階だけで八つのテナントが存在しているが、その中でも雑貨屋は一際異彩の雰囲気を醸し出していた。
売り文句は『和と洋のコラボレーション!! 新時代の雑貨+インテリア!!』と真新しい物好きの日本人の心を的確に捉えそうなキャッチフレーズ。
店舗内は正に和と洋が混ざり合い、明治時代の様なレトロな雰囲気を醸し出しながらも画期的で新鮮な空間だった。
雑貨を見つめるソラの瞳は年相応の少女のそれで、ピヨちゃんが初めてみる表情だった。
雑貨屋に対する彼女の憧れ/夢がどれ程大きいものか、ピヨちゃんは初めて理解し、自分が彼女にした仕打ちの残酷さも初めて直視した。
何処にもないはずの心がズキリと痛んだ。心が痛むその感覚さえプログラムされた感情の一つなのだろうか――それを悩む心さえ。
「ピヨちゃん?」
「へっ? なんだい、ソラ」
ソラの声で我に返り、いつものなんてことのない笑顔で応える。笑顔の下に隠した感情=恐怖――彼女の真っ直ぐな瞳が酷く怖かった。
「何回も声掛けたのに返事しないでさ。ほら、これなんか凄く可愛いよ」
そう言ってソラが手に取ったのはガラスの代わりに和紙が貼られた燃料ランプ。
中心で灯る火は不燃性の樹脂でコーティングされた和紙を通して暖かな光を発し、見る者の心も癒し/暖かくするようで、ピヨちゃんの荒れていた心も急速に平常心を取り戻していた。
「本当だ、凄く……凄く綺麗だ」
偽りのない言葉が自然と漏れ、涙が零れた。その涙も感情回路の演算処理によって視覚化されただけの情報でも、人が流すそれと同じものだとピヨちゃんは信じたかった。
ソラとピヨちゃんは雑貨屋を十分に堪能し、それぞれ数点、安い雑貨を買った。
「楽しかったね」
「うん、楽しかった」
珍しく意見が一致し、笑い合った。楽しいひと時だった。
ピヨちゃんはそれがいつまでも続けば良いと思った。だがそれは叶わない夢だと心の隅では分かっていた。いつか本当のことを言わなければならない。ソラを事務所にスカウトした本当の理由を。
だけどそれまでの短い間、ひとときの幸福を味わっても、罰は当たらないと思った。
だが現実は非情だった。ピヨちゃんの嘘への断罪なのか、それとも運が悪かったのか――幸福の時間は唐突に終わりを迎えた。
閃光=爆発/暴風=衝撃。
何が起こったのか、ソラにもピヨちゃんにも理解出来なかった。
ただ気付いた時にはソラが背中から壁にぶつかり、耐えがたい激痛に襲われた事実だけ。
「ソラ!! 大丈夫!? 一体、何が!?」
慌てふためくピヨちゃんが見たのは黒く焦げた床/粉々に吹き飛んだ壁+天井+商品/無数に転がる人だった物。
何が起こったのか――すぐに理解した。テロだ。
ソラ達が聞き逃した爆破テロ予告の緊急速報。その標的のひとつがこの雑居ビルだった。
ソラの居た位置はこの階にセットされた爆弾の位置から遠く、爆風で吹き飛ばされ全身を壁に強く打ったが目立った外傷がないのは、不幸中の幸いだった。
だが全身強打は十五の少女には耐えがたい激痛で立つことはおろか、呼吸すらままならない。
「ソラ!! 返事して!」
ピヨちゃんの必死の呼びかけに、携帯を握り締めて応えるのがやっとでそれ以上の行動は取れない。
呼吸は弱く、彼女の命の灯は今にも消えてしまいそうだ。
自分に何が出来るか――ピヨちゃんは考えた。携帯の中に住むコンシャルキャラである自分は助けを呼ぶこともソラを安全な場所まで連れていくことも出来ない。
無力――残酷な現実がピヨちゃんを打ちのめそうとしていた。
「僕はなんて無力なんだ……!! くそっ、ソラ死んじゃ駄目だ!!」
「ピヨちゃん……」
ソラの消えそうなほど小さな声が聞こえた。それは自分を心配してくれるピヨちゃんを安心させてやりたい一心でソラが振り絞った声だった。
儚い程健気で、十五の少女とは思えない強さを感じた。
それが起爆剤となった。ソラを守る――強い使命感がピヨちゃんの中に芽生え、根本的なことを思い出せた。
自分はAI携帯であり、ハッキングは得意中の得意。
最初の行動は、このビルの警備システムにハッキングし動作する防火シャッターを全て下ろすことだ。
防火シャッターは運良くソラが吹き飛ばされた場所と爆発が起こった間にあり、有害な煙と熱からソラを守ることが出来た。更に警備システムから空調システムにハッキングし、ソラの下に新鮮な空気を送る。
現状行使できる手段で最善の安全は確保出来た。後は救助の要請だが、爆破テロで混乱する街で、救助隊が到着するのに何分掛かるだろうか。
雑居ビルの位置と最寄りの消防署+治安組織基地の位置、更に防犯カメラで外の様子を確認。
逃げ惑う人々/黒煙を上げる複数のビル/銃を振りかざすテロリスト。
得られた情報とAIの頭脳を駆使して、救助までの予想時間を算出。結果=死。
ソラ達がいるビルに続々と侵入してくるテロリスト。防火シャッターを可能な限り動作させたとはいえ、いずれは突破される。
救助隊の到着より、テロリストがソラの元に到着する方が圧倒的に早い。生存は絶望的だった。
だがピヨちゃんは諦めなかった。ソラを助ける為なら危険な選択すら厭わなかった。
例えこの件でスクラップになろうと、本来の目的を果たせなくても構わないと。
ピヨちゃんはSMBのマザーサーバーに二度目のハッキングを仕掛けた。今回は依頼あってのハッキングではない。あちら側にしてみればただのハッキング行為であり、犯罪行為だ。しかし、これが最善の手段だとピヨちゃんは自分の決断を信じた。
ネット回線を通じてSMBのマザーサーバーに到着するとステルス工作など一切行わず、真正面から堂々と乗り込んだ。
鳴り響く警告音など全て無視。代わりに現在位置などの情報を添付した救難信号を転送。
これは賭けだった。SMBが一人の一般市民を助ける為に戦力を割る覚悟のある組織であると信じての行動だ。確信はあった。
自分を救ってくれたヤエガキ先生が信頼する男が所属する組織。
それだけで信じるには十分だった。
「待っててね、ソラ。すぐに救助が来るから」
「うん……」
多少落ち着いた呼吸でソラは辛うじて返事をした。
ソラとピヨちゃんに出来るのは信じて待つ事――それだけだった。
「たっまんないねー!!」
木霊する溌剌とした笑い声。
シュガーは機械義足の性能を十二分に発揮し、常人離れした脚力で乗り捨てられた車の間を颯爽と駆け、テロリストへ猛攻を仕掛ける。
当然のように銃撃で応戦するテロリストだが、銃弾が全てシュガーを避けるように逸れていき、一発も命中しない。
シュガーの周囲には台風並みの強風が吹き荒れ、それが防壁となり、銃弾の一切を防いでいた。
風を纏う異能の力=風神。心を持つAIが存在し、機械の身体すら得られる時代に置いて、それらとは相反する非科学的な力=フォース。
科学的に全人類が潜在的に持つと実証された異能の力であり、その原理は未だに謎に包まれた力。
シュガーはそれを操ることの出来る数少ない存在であり、その戦闘力は一個小隊に匹敵する。
機械の両脚は常人を凌駕する膂力を発揮し、一蹴りで数人のテロリストを吹き飛ばし、肉を切り裂く風で更にテロリストを葬る。
「どうした!? かかってこいよ!!」
男口調で敵を威嚇し、車の上で威風堂々と構えるシュガーの姿はテロリストには人の姿をした獣に見えた。
『シュガー、調子に乗っていると寝首かかれるわよ』
一発の銃声/脳内に響くブラックからの無線通信。
銃弾は車の陰に隠れ、無反動砲でシュガーを狙っていた敵の頭を撃ち抜いた。
『大丈夫、私には頼りになる狙撃手がついている』
『都合の良いこと言っている暇があるなら戦いなさい』
屈託のない笑みで笑いかけるシュガーにブラックは呆れつつ、頼りにされる喜びを感じ、自身の仕事を全うする。
自分にしか視えない位置の敵を正確無比の狙撃で一人、また一人を確実に沈めていく。
「六百三十三」
ブラックの狙撃でまた一人、肉塊と化した。撃たれた敵はブラックの位置から三百メートル離れた街路樹の陰。例えどれだけ優れた狙撃手でも発見から一秒余で狙いを定め、一発で仕留めるのは至難の業。
だがブラックにはそれが可能だった。自身の持つ異能の力――全てを視透す、透視眼=サテライトアイ。
ブラックの視認範囲内では隠れても意味を成さない。対物侵徹ライフルは如何なる壁も容易に貫き、サテライトアイ+SMBのマザーサーバーとリンクした擬似脳によって算出された弾道からは何人も逃げられない。
シュガーに並ぶスピードでブラックは敵を掃討していく。
此度の新宿爆破テロの規模は大きく、爆破されたビルは十数、死者も三桁に及び、敵兵力も三桁は下らない。
SMBだけで既に百近いテロリストを葬ったが新宿各所で鳴り響く銃声は未だに衰えない。
約十年前に起こった新宿同時爆破テロ――それを彷彿させる凄惨さにシュガーの表情がわずかに歪む。未だに彼女の心に深い傷を残す忘れもしない事件。
その傷の痛みに抗うように、乗り越えるようにシュガーは迫り来る敵を薙ぎ倒した。
『シュガー、聞こえるか?』
唐突に響くミルクからの無線通信。
『どうした? 新手か?』
『違う。たった今、総隊長から連絡が入った。SMBのマザーサーバーに何者かがハッキングを仕掛けた』
『マザーサーバーにハッキング!? なんとも命知らずがいたもんだが、このテロと関係あるのか?』
『その際、救難信号が転送されていた。お前の地点から直ぐ近くの雑居ビルから発信されたものだ。爆発に巻き込まれた一般市民がビルに閉じ込められ、動けない状況だ』
閉じ込められた――その単語がシュガーの中で木霊し、わずかな恐怖心と強い使命感を与えた。
かつて自分がエレベータに閉じ込められ、生死を彷徨った恐怖。それを誰かが味わっているのなら助け出したい、その一心で擬似脳に転送された情報を頼りに現場に向かう。
『任せな。その閉じ込められた奴は私が助け出す……後は任せたよ、ブラック』
『言われなくても』
心強い仲間の言葉に背中を押され、シュガーは全力で走った。
「ソラ、気分はどうだい?」
爆破テロが発生してから十五分が経過しようとしていた。
全快とはいえないが、身体の痛みは治まり、呼吸も安定している。だが状況は変わらず、外に出る術はなく、階下からは武装したテロリストが防火シャッターを越え、徐々にソラ達がいる階に迫っている。
ピヨちゃんが出した計算ではテロリストが十階に到達するまで残り二十分弱。
それまでに助けが来なければ、最悪の結末が訪れる。今は信じて待つしかない。SMBのマザーサーバーにハッキングして転送した救難信号を信じて助けに駆けつけるのを。
「ピヨちゃん、ごめんね」
ソラが掠れた声で呟き、携帯をギュッと握り締めた。
「私が、買い物に行こうなんて我儘言わなければこんなことに巻き込まれずに済んだのに。ごめんね、ピヨちゃんを巻き込んじゃって」
大きな瞳から涙が溢れ、立体映像で浮かび上がるピヨちゃんを通り抜け、携帯を握った両手にポタポタと落ちた。
「違う、ソラは悪くないよ。僕がテロの緊急速報を確認しておけばこんな事態には」
普段の適当さが招いた事態だとピヨちゃんは嘆いた。こんな幼い少女を危険な目に合わせて、何がヤエガキ事務所代表のAI携帯か。
しかし自分を責めてもこれ以上、状況を変えることは出来ない。
時間は無情にも過ぎていく。五分前より銃声の音は大きくなり、防火シャッターを破壊する音がより鮮明に聞こえた。
「ソラ、奥へ隠れよう。この先に用具庫がある」
痛む身体に鞭打ち、ソラは壁に寄り掛かりながら必死に前に進んだ。
普通なら数十秒で移動できる距離を数分掛けて移動し、用具庫の中に隠れた。
中は暗く、掃除用具や段ボールが高く積まれ、隠れれば容易には発見されない筈だ。
それでも恐怖は納まらなかった。
過去に麻薬密売人を尾行し、捕まった時を確実に上回る恐怖と明確なる死のイメージが頭から離れない。
ソラはじっと待った。来るかも分からない助けを。
用具庫に隠れてどのくらい経過しただろうか。
何時間も経過したような倒錯感に襲われ、携帯を開くが実際はまだ十分しか経過してなかった。
テロリストが十階に到着する予想時間は目の前に迫り、扉の向こうから聞こえてくる銃声はよりはっきりと聞こえた。
「ピヨちゃん、怖いよ……!!」
「大丈夫、もしテロリストが来ても僕がソラを護るから!!」
気休めの言葉でも良かった。何とかしてソラに生きる希望を失わないようにしたかった。
やがてテロリストがソラ達のいる十階に到達。獲物を探してテナントを徘徊し、隠れていた生存者を嬲り殺していく。
『奥の方も探せ!!』
日本語じゃない言語が扉越しに聞こえ、恐怖は最高潮に達しようとしていた。
近づいてくる複数の足音と下卑た笑い声。
「ピヨちゃん……最後に言っておくね。短い間だったけど、ピヨちゃんとの探偵業、楽しかったよ」
「馬鹿!! 最後だなんて縁起でもない。ソラはこれからも僕と一緒に探偵をして、やがてはヤエガキ事務所を引っ張っていく探偵になるんだ!!」
「うん、そうだね。それも悪くないね」
仕方なく始めた探偵――大変なこともあったけど、楽しいことも山ほどあった。出来るならもっと探偵をやりたい。困っている人の役に立ちたい。
――だからお願い、神様。どうか私に生きるチャンスを下さい。
足音が扉の前で止まり、ガラスが砕け散る派手な音と叫び声が響いた。
「クソ野郎ども、私が相手だああああぁぁぁ!!」
凶暴で容赦の欠片もない怒号。扉の先で発生する戦闘の気配。銃声と悲鳴が入り乱れ、ソラはその音を呆然と聞いていた。
戦闘の気配は十数秒で消え、シンと妙に静まりかえった扉の先が不気味だった。
突然、開かれる扉。だが不思議と恐怖はなかった。
「いるんだろ、出てきな。助けに来たぜ」
若い女性の声だが頼もしさの感じるそれにソラはゆっくりと立ち上がり、物陰から姿を現した。
ソラの姿を確認した女性は歩み寄り、ソラの身体を強く抱きしめた。
「もう大丈夫だ。よく耐えた」
ソラの瞳にまた涙が滲んだ。先程流した懺悔の涙ではない――安堵の涙。
ソラは女性に抱きつき、声を上げて泣いた。