「フィオナ」

 目覚ましの音で、彼女は目が覚めた。
 眠りの中にあった意識が呼び起こされ、覚束無い手振りで目覚まし時計を探す。
 指先が目覚まし時計に触れた。音が鳴りやみ、静寂が部屋を包み込む。
 たっぷり、数十秒程経っただろうか。
 部屋の主である灰色の髪の少女が身体を起こす。
 表情の無い、眠そうな顔。白いTシャツだけ纏った華奢な四肢。
 如月フィオナ―――彼女の名前だ。
 フィオナはたっぷり五分程使って意識を覚醒させ、硬く寝心地のあまり良くないベッドから降りて、纏っていた白いTシャツを脱ぎ、一糸纏わぬ姿になり、バスルームに向かう。
 コックを捻り、シャワーヘッドから勢いよく飛び出した冷水を頭から浴びる。
 火照った身体が冷やされ、同時に意識が完全に覚醒する。
 シャワーを浴びつつ、今日の予定を再確認。
 午前中は休みで、食料の買い出しに行く予定。午後は夕方から任務で本部に赴く事になっている。
 コックを捻って水を止め、タオルで身体の水滴を拭ってバスルームを出る。そして直ぐ目の前にある冷蔵庫からミート味のレーションを取り出し、部屋に戻る。外出用の白いTシャツと下着だけ纏い、ベッドに腰掛けて一日で唯一の食事を始める。
 レーションは一日に必要な栄養素、エネルギーを摂取できる高栄養糧食。
 満腹感も長く続き、味も豊富。
 フィオナが好んで食べるのは今食べているミート味とミルク味、チョコバナナ味。
 尚、一般的に人気があるのはチーズ味、チョコ味、コーンスープ味等だがフィオナはあまり食べない。
 本人曰く、苦い思い出があるから。
 レーションを食べ終わり、ちらと時計を見るとまだ八時前。
 何処の店もまだやっていない。
 レーションは二十四時間経営のコンビニ等では売られていない。
 大体九時頃から開店する大手のスーパーに行かないと売っていない。
 残り一時間強。
 それまでの間、フィオナは武器の手入れをする事にした。
 魔道波ブレード。フィオナの愛用の武器。
 通常の刃物として扱える他、魔力を籠める事で刃状の衝撃波を飛ばす事が出来る遠近両用の武器。
 鞘から取り出し、露になった何百人の人間の血を吸った刀身をいつも通り、手入れを行う。
 魔力動力部の動きもチェックし、柄巻きが緩んでいないかも確認し、手入れを終える。
 時間にして二十分弱。まだ、時間が余っている。
 他にする事と言えば、装備品のチェックだが、買い出しから帰って来てからでも十分に間に合う。
 手持ち無沙汰になったフィオナは考えた末、魔道波ブレードを持ち、紺色のジーンズを履いて、玄関に向かった。
 ブーツを履き、外の渡り廊下に出ると躊躇う事無く、手すりを飛び越え、宙に躍り出た。フィオナが住んでいる部屋はボロボロのアパートの三階。
 普通の人間では打ち所が悪ければ即死する高さ。
 だがフィオナは軽々と地面に着地。濡れた髪が雫を散らし、朝日を浴びて輝く。
 刹那、丸い雫が両断される。
 着地と同時にフィオナは抜刀し、自身の内に秘められた能力を解放。
超人の域まで上昇した動体視力で宙を舞う雫を視認し、一流の域に達した技で、雫を斬った。
 斬られた雫は一秒にも満たない時間で地面に落ち、同じ時間でフィオナは十回魔道波ブレードを振るった。
 フィオナ以外、誰もいないアパートの中庭に空を斬る鋭い音が絶え間なく響き渡る。
 流水の様に滑らかな魔道波ブレードの切っ先と雷の様に鋭いフィオナの動き。
 常人では一体何をやっているか視認出来ないフィオナの鍛錬。
 身体を巡る魔力を感じ、筋肉と骨と関節の動きを感じ、一挙一足無駄の無い動きで魔道波ブレードを振るい続ける。
 額に僅かに浮かんだ汗が身体を回転させた勢いで宙を舞う。
 その雫をフィオナの一撃が斬り裂いた。
 魔道波ブレードを振り切った状態で静止するフィオナは息一つ乱さず、何も無い空間をじっと見据えた。
 ジャリ―――背後で、砂利を踏む足音が響く。
 反射的にフィオナは振り向き、魔道波ブレードを振るった。
 切っ先がピタリとある一点で止まる。背後に現れた人物の喉元で。
 魔道波ブレードの切っ先を喉元に当てられた人物は特に驚く素振りを見せず、温和な笑みをフィオナに向けていた。
 オールバックで白髪交じりの長髪、皺の刻まれた顔、立派な口髭。
 フィオナが良く知る人物。

 「失礼しました、スティーブ隊長」

 「気にする事は無い。向上心がある事は良い事だ」

 スティーブと呼ばれた老人に見える男は笑みを強め、孫娘を観る様な目付きでフィオナを見つめていた。
 スティーブは黒い服を纏い、腰にはバックパックと彼の武器である年代物のリボルバーがぶら下がっている。

 「これから任務ですか?」

 フィオナの問いにスティーブは頷く。

 「魔獣を率いた魔道犯罪集団が街道沿いに潜んでいると諜報員から部長に連絡があってな。休日返上でアンテノーラ街道までドライブさ」

 スティーブは苦笑を漏らしつつ、任務の内容をフィオナに話す。
 フィオナとスティーブは部隊こそ違うが同じ組織に属する者同士。
 組織の名を魔道白兵隊。
国内で起こる犯罪集団による事件の解決を主任務とする政府の非公認組織。
スティーブは第二隊隊長。
フィオナは、第七隊隊長。

「お気をつけて」

「あぁ。フィオナ達も夕方から任務だろう? お互いにな」

スティーブは一際強い笑みを浮かべ、別れの挨拶を最期に、フィオナに背を向けて、任務に向かった。
スティーブとの会話の間、フィオナは終始無表情だった。
口と瞬き以外、一切表情が動く事は無く、その様は生きた人形。
フィオナは過去の出来事により、心に深い傷を負った。
その結果、彼女は感情の殆どを持たなくなった。
それを知っているスティーブは無表情のフィオナに気分を悪くする事も無く、むしろそれが普通である様にフィオナと接した。
組織の中にはフィオナの無表情を快く思わない者も居て、時折、フィオナと衝突する事がある。
尤も、隊が違うと殆ど関わりを持たない風潮がある組織の為、半年に数回の頻度ではあるが。
それでも他人との問題事を好まないフィオナにとってスティーブの様な態度は有り難がった。
表情に出す事は無いが、心から感謝していた。
スティーブが居なくなってからも十分近く、鍛錬を続け、九時前になったのを見計らって鍛錬を止める。鞘に魔道波ブレードを納め、階段を使わず、跳躍で三階まで一気に昇る。
掻いた汗を拭い、魔道波ブレードを置き、引き出しの中に適当に入れてあった一番高価なお札を数枚握り締め、今度こそ、食料の買い出しに向かった。
アパートの敷地を出ると一気に人の気配がフィオナを包み込む。
スーツ姿のサラリーマンやOL達が右へ、左へ行き交う中を流れに乗って、目的のスーパーに向かう。
十分程で目的のスーパーに到着する。
国内で最も店舗の多い大型スーパー。食品から日用雑貨、娯楽品、何でも揃う。
綺麗に並んだ買い物籠の山から一つ籠を取り、自動ドアをくぐって、目的の物が売っている売り場まで一直線に向かう。
朝、フィオナが食べたレーションこと高栄養糧食、その売り場。
レーションは人気が高く、どのスーパーでもこれでもかと売られている。
コンビニエンスストアで売られないのは売り場の半分以上を持っていかれる為だ。
ズラリと並んだレーションの中からフィオナはお気に入りのミート味、ミルク味、チョコバナナ味の三種類をそれぞれ十個ずつ纏めて買い物籠に入れる。
月に数種類発売される新味のコーナーで立ち止まり、先日発売された新味の、カレーパン味、納豆味、軍用糧食味の内、カレーパン味を三つだけ買い物籠に入れて、レジに向かった。
会計を済ませ、買い物袋を両腕で抱えて、フィオナは帰路につく。
喧騒の中に包まれる通りを来た時と逆に進み、ほぼ同じ時間でアパートに到着する。
流石にレーションが三十個以上入った袋を持ったまま跳躍は出来ないので今回は素直に階段で三階に向かう。
エントランスから階段を上り、渡り廊下を歩いて自分の部屋に入る。
レーションを全て冷蔵庫に放り込み、時計をチラリと見ると時刻は九時三十分。
任務の為に魔道白兵隊の本部に行くのは夕方の四時。まだ六時間近く余裕がある。
フィオナの部屋にはテレビ等の娯楽品が一切ない。
支給品の携帯端末でニュース等の情報は得られるがフィオナにとって必要な情報は普通のニュースでは得られないだろう。
ベッドに腰掛け、数秒間思案する。
ピンポーン!!
思案を中断する間抜けなチャイム音が響いた。
フィオナは立ち上がり、玄関に向かう。
フィオナの部屋を訪れるのは三人しかいない。その内、律義にチャイムを鳴らす人物は一人だけ。

「おはよう、フィオナ」

「おはようございます、マークさん」

玄関の扉を開けると金髪碧眼の少年が笑顔でフィオナの前に立っていた。
マーク・トンプソン。フィオナ率いる第七魔道白兵隊隊員の一人で同隊最年少の少年。

「何処か、出掛けていたの?」

「はい、レーションの買い出しに行って、戻って来たばかりです」

マークは少し残念そうにため息を漏らす。
その挙動にフィオナは無表情のまま首を傾げる。

「どうしました?」

「いや、僕も少し買い出しの予定があったから一緒にどうかなと思ったんだけど、一足遅かったみたいだね」

成程とフィオナは納得し、

「では今から行きましょう」

「え? でもフィオナは買い出し行って来たんでしょ?」

「構いません。特にやる事もないので。隊員とのコミュニケーションも隊長の務めです」

わかったと頷きながらも、マークの表情は何故か少しだけ残念そうだった。
フィオナはそれには気付かなかった。
二人揃ってアパートを出たフィオナとマークはフィオナが先程訪れたスーパーに向かった。
道中二人は終始無言。これが大体デフォルト。コミュニケーションは何処へやら。
スーパーに到着し、マークがカートを押してフィオナは隣を歩く。
魔道白兵隊の任務は長期に及ぶ事が多い。短くても一日以上。長い時はひと月に及ぶ事もある。
その為生モノ等の食材は買い置きが出来ない。必然的に加工食品が主食となる。
マークはフィオナと違い、レーションだけと言う食生活は送っていない。
レーション売り場を通り過ぎ、二人はドライ食品のコーナーに立ち寄る。
お湯を掛けるだけで簡単に食べられる加工食品。種類は多岐に渡り、穀物やスープ類は勿論、野菜類や魚介類等も種類が豊富。
マークはドライ食品を好んで食べる。
いつも買っている物とまだ買った事無い物を適当に放り込み、次の売り場に向かう。
他には缶詰、レトルト食品等、保存の効く食品を大体ふた月分買い占め、カートの中は既に一杯。

「えっと、他には…」

「まだ、買うんですか?」

流石のフィオナも少々驚き、僅かに眉間に皺が寄る。

「一回にまとめ買いした方が楽だからね。正直、傍から見たらフィオナがレーションを両腕で抱える程買うのも中々ビックリモノだよ?」

フィオナは数十分前の事を思い出す。
買い物袋一杯に入ったレーションを抱えて歩く自分。
他人から見たら確かに少々可笑しな人物に見える。フィオナに自覚は無いが。
結局、山盛りカート二つ分の買い物をしたマークは持参した登山用の大きなリュックに会計を済ました食品を器用に詰めて行き、パンパンに膨れ上がったリュックを背負い、フィオナと帰路に付いた。
傍から見れば、フィオナより今のマークの方がよっぽど可笑しな状況だ。
道行く人が脚を止め、不可解な視線をマークに送っては首を傾げていく。マークには自分が可笑しな事を自覚はしている。
が、名前も知らない誰かの視線を気にする程、マークは他人を気にして生きていない。
結果的にフィオナと買い物出来た事で上機嫌なマークは鼻歌混じり。
アパートに到着し、マークと別れたフィオナは再び手持無沙汰になってしまう。
時刻は十時半。あれからまだ一時間しか経っていない。
剣の鍛錬をしようか迷ったが一日に何度もする必要は無い。
考えた末、出てきた答えは一つ。
フィオナは来ていた服を脱ぎ、再びバスルームに向かう。
今度はシャワーでは無く、浴槽にお湯を張る。
鍛錬と外出で流した汗を湯船に浸かって流す。
一日の終わりには必ず湯船に浸かる様にしているフィオナだが今回の任務は夜間の移動となる可能性が極めて高い為、今の内に湯船に浸かっておく事にした。
肩まで浸かる程お湯が張った所でお湯を止め、後はじっくり熱めの湯浴みを堪能する。
何時間過ぎただろう。何度かお湯を入れ替え、これでもかと言うくらい湯浴みを堪能したフィオナは浴槽から出て、バスタオルで身体の水滴を拭い、部屋に戻る。
時計を見ると午後一時。三時間以上湯船に浸かっていた様だ。
フィオナは白いTシャツと下着を纏い、タオルを頭から被ってベッドに腰掛け、窓から外を眺めた。
幾つもの高層ビルが立ち並び、城壁に囲まれた都市。
この都市に住む人々は国の為に働き、国の為に死んでいく。
自分のその一人。過去の罪を洗い流す為に魔道白兵隊の一員となり、生死が入り乱れる日常を過ごしている。
虚しいと思った事は無い。充実しているとも思った事も無い。
只、淡々と任務をこなし、意味も無く、毎日を生きているだけだ。
疑問を感じた事は無い、変えたいと思った事も、無い。
生きる意味を持たぬ、生きた人形。
それで良いと、フィオナは思っていた。自分にはそれが相応しいと。
両手を××の血で染めた自分には。

三時過ぎ。装備品のチェックを終えたフィオナは任務用の服に着替えていた。
黒い、飾り気の無い服。機能性を重視した戦闘服。
ベルトを回し、上着のファスナーを一番上まで上げ、バックパックを腰に付け、魔道波ブレードを腰に差した。
集合時間までまだ時間があったがフィオナは部屋を出た。階段を降り、エントランスの長椅子に他の隊員が来るのを待った。

「フィオナ」

最初に来たのはマークだった。集合時間の五分前。
集合時間丁度に残りの二人の隊員が現れた。
一人は筋骨隆々で身長の高い男。名を紀彦・クリントン。
もう一人は紀彦程で無いが線のしっかりとした男。名をジャック。

「行きましょう」

フィオナは立ち上がり、歩き出した。

生と死が入り乱れる戦場に向かって。

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