一話 天城村


 正義とは何だ――
強きを挫き、弱きを守る?
強い者は全員が悪か?
弱い者は全員が守るべき者か?

 この世に絶対的な正義も悪も無い。
あるのは身勝手な自己満足だけだ。
他人の為に身を削るなんてくだらない。
罪を犯し、自分は悪だと叫ぶ奴は自己陶酔も甚だしい。

 ましてや、他人の為に死ぬなんて事は、愚か者がする事だ―――


 一定のリズムで車体が揺れ、その度にガタンゴトンと心地良いメロディーを鳴らす。
 電車は山間に存在する一時間ないし、二時間に一本と言うローカル線を走っていた。
ワンマン電車の二両編成。客の数は少なく、年配の夫婦が一組。
ボックス席に高校生が四人座り、その二つ先のボックス席に青年が一人座っていた。
 青年はぼんやりと窓の外を眺め、時折腕時計を確認しながら時刻表を見ていた。
その青年を二つ離れたボックス席に座る高校生が奇異な目で、時々驚いた様にクスクスと笑っていた。
青年はそれに気付いていたが大して気にも留めなかった。
 青年の名は羽柴ヤマト。東京でサラリーマンをするごく普通の青年だ。
ただ、格好が少々派手と言うか、田舎では目立つ格好だった。黒いジーンズに黒いブーツ。
白いシャツを肘まで捲り、黒いベストとネクタイを身に着け、シルバーアクセサリーも多く身に着けていた。
俗に言う、ゴシック・ロック系と言った服装だろう。
都会ではさして珍しい服装でも無さそうだが田舎ではかなり目立つ。
田舎とは無縁そうなヤマトが何故こんな田舎のローカル線に乗っているのか、それにはしっかりとした理由がとあった。
一か月前、ヤマトの親友が死んだ。病気や事故ではない、殺されたのだ。
理由は些細な事。酔って喧嘩をしていたサラリーマンの仲裁に入った所、
喧嘩をしていた片方に割れたガラスで腹部を刺され、病院に運ばれたが二時間後、眠る様に息を引き取った。
親友の名前は織田ナガト。ヤマトとは同い年の二十二歳。
正義感が人一倍強く、赤の他人でも困っていれば助け、自分の怪我も厭わない、善人の鏡の様な青年だった。
しかし、それが仇となり、ナガトは死んだ。
僅か二十二歳で。早すぎる死に、彼の数多い友人、家族は悲しみに包まれ、別れを惜しみ涙した。
ヤマトだけは違った。
悲しみはあったがそれ以上に怒りに近い感情が胸の内にあった。
ヤマトはナガトと違い、厄介事が嫌いな性格で争いを避けて生きてきた。

以前、電車の中で痴漢に間違われた事がヤマトにはあった。
相手は四十代後半の必死に若づくりしている様な厚化粧の女性。
無論、ヤマトは痴漢などしていない。
しかし、女性は耳障りな悲鳴を上げ、後ろに立っていたというだけでヤマトを犯人扱いし、ヤマトは周りのその場限りの正義感を振りかざした数人の男に捕まった。
降りる目的の無い駅で無理矢理降ろされ、駅構内の交番に連れていかれた。
ヤマトは気だるそうに、やっていないと容疑を否定したが女性は金切り声で意味の分からない事を喚き散らす。
警察官もヤマトが痴漢をしたという前提で話を進め、ヤマトの言葉には耳を貸さない。

「物的証拠は?不確かな状況証拠だけで無実の人間を罰するのかい?」

「痴漢をした人間は皆そう言うんだ」

「警察がそんなんだから冤罪が減らず、示談金目当ての犯罪が起きるんだ。おばさん、示談金幾ら欲しいの?」

やっかい事を嫌うヤマトだったが彼は無意識の内に火に油を注いでしまう性格だった。
女性は顔を真っ赤にし、警察官はヤマトを睨み、ヤマトを連行した数人の男達はヤマトに罵詈雑言を浴びせる。
めんどくさそうに欠伸を漏らすヤマト。
痴漢とか冤罪とか示談金とかどうでもいいから早く家に帰りたい。
当事者にも関わらずヤマトは自分の置かれた状況を他人事の様にぞんざいに扱った。

「反省の色無しか。お前みたいな屑が居るから日本の犯罪は増えるんだ」

「お巡りさん、責任転嫁は良くないな。警察が無能だから犯罪が減らないんだろ」

「貴様……我々を侮辱する気か!」

「一般人とグルになって示談金を巻き上げようとする警官が居るくらいだからね」

ヤマトがそう言った瞬間、警察官と女性の表情が凍りついた。ヤマトはニヤリと笑うと身を乗り出す。
ヤマトは見逃さなかった。
女性が交番を訪れた時、警察官が僅かに笑みを浮かべたのを。
以前、ネットで知った眉唾な情報がこんな所で役に立つとはヤマトは考えてもいなかった。
警察官と女性がグルになって示談金を巻き上げる事がある、と。
ヤマトは鎌をかけたつもりだったがこの二人は実際のその手口で示談金目当ての痴漢冤罪を起こしていた様だ。

「まさか、天下の警察官がそんな事しませんよね?」

返事は直ぐに返ってこなかった。それはやっていますと言っている様なものだった。
ヤマトは椅子から立ち上がり、呆然とした表情の男達に声を掛けた。

「警察呼んでこの二人捕まえてくれ」

それだけ言うとヤマトは逃げる様に交番を後にした。
男達は戸惑いながらも二人を拘束し、警察を呼んだ。
後日、この事件は世間を騒がせ、痴漢冤罪に対する意識の向上が図られた。
事件の解決にヤマトが一役買ったのは数人の男達の他は誰も知らない。
あの場に残っていれば、後々警察やマスコミに嫌という程揉まれたに違いない。
只でさえ、厄介事が嫌いなヤマトなのに痴漢に仕立てられた上に、知りもしない連中に自分の話をされるのが嫌でならなかった。
人間の一部分しか見ていないのに全てを知った気になり、偉そうに評価し、自己満足に浸る。ヤマトが一番嫌いな人種だった。
痴漢から、警察の不祥事を露見させた英雄になれるんだったら、少しの厄介事くらいいいじゃないかと思うかもしれないが、
ヤマトにとってはどちらも只の厄介事でした無かった。

どんな理由があろうと、自分にとって厄介事だと判断した事は極力避けてきたヤマト。
それ故、赤の他人の喧嘩の仲裁如きで命を落としたナガトの考えが理解出来なかったし、愚かな考えと唾棄した。
以前、ヤマトにナガトは言った。
『後悔だけはしたくない。あの時こうしてればとか、ああしていればとか、そんな風に過去を振り返りたくない』と。
後悔しない為に自分の正義を貫いた結果が無残な死。ナガトの親は彼を殺した犯人を一生許さないとニュースで語っていた。
一方でそのニュースではコメンテイターの一人が、
『知らない人間の喧嘩の仲裁に入って死ぬなんて、馬鹿な事したものですね』と失言し、
降板させられた不祥事もあり、その裏でコメンテイターの発言を支持する声もあった。
正義とはなんだろうか?ヤマトは只の自己満足だと考えている。
今の時代、人を殺せば、捕まり、裁かれるのは当たり前だ。
多く人を殺せば罪は重くなる。
しかし戦時下では?
戦争と言う名の下、殺しは正当化され、人を多く殺せば英雄扱いされる。
戦争に勝てば英雄とされ、負ければ賊とされ、罰を受ける、負けても勝っても人を殺している事実は一緒なのにも関わらず。
正義なんてモノは時代・法律・状況・思想によって姿を変える。
今日の正義は明日悪かもしれない。
その逆もまた同じだ。
ナガトは自分の正義を貫き、ヤマトはそれを理解しようとはしなかった。
真逆な二人が何故親友になったのか、それは共通の趣味があったからだ。
二人の趣味、それは旅をする事。出会いのきっかけも旅だった。
旅をする目的自体は多少違うが、共通の趣味により二人は直ぐに打ち解け合い、交流を深めていった。
考えの違いによる衝突もあったが彼等にとって些細な事だった。

 
ヤマトが電車に乗って向かっているのは山間にある小さな村、天城村。
ヤマトとナガトがいずれ行こうと決めていた村であり、ナガトが生まれ育った村だ。
 東京から新幹線で地方の都市部に移動し、そこから電車を乗り継いで一時間半。
更にそこから今乗っているローカル線に乗り換え、二時間弱。
今いる所からだと後二十分程で到着すると駅で貰った時刻表には書いてあった。
 ナガトが死んだ事で本当は行くのを止めようとヤマトは思っていた。
しかし、ヤマトは疑問に思った。何が、ナガトの正義感を強くしたのか、と。
もしかしたら天城村に行けば分かるかもしれないと。ナガトが死ぬ覚悟を持つ程強い正義感を持った理由。
それを知る為にヤマトは一人で天城村に向かう事にした。


 『天城、天城です。お降りの際は…』

 天城村の唯一の駅である天城駅に到着するアナウンスが流れる。
網棚から旅用の大きなバックを降ろし、一番前のドアに向かう。
車内に高校生の姿は既に無かった。一つ前の駅で降りた様だ。
 電車は駅に到着し、停車。切符を車掌に渡し、ヤマトは駅に降り立つ。
駅員のいない無人駅。待合室がちょこんとあるだけで自動券売機すら置いていない駅は少し寂しい感じがする。
 ヤマトの背後でドアが音を立ててしまり、電車はゆっくりと発進しやがて見えなくなった。
駅から出たヤマトはとりあえず人が居そうな方に向かって歩き始めた。
辺りを見回しながらヤマトはナガトが言っていた事を思い出す。
ナガトは天城村をこう評していた。
山と森に囲まれ、田園風景が広がり、人は皆暖かい良い場所、と。彼の言う通り、山に囲まれ、山際には森林地帯が広がっている。
鬱蒼と茂っている訳では無く、しっかりと間伐され、人の手で整備された痕跡がある。
駅の近くには綺麗な川と河原が線路とほぼ平行に流れていた。
そこまで深くない川は夏には子どもが遊ぶ場として最適、魚も獲れそうだ。
しっかりと舗装された道とは別に畑や田んぼの間を通る農業通路が沢山ある。
車が通る部分は砂利道で、その間は草がボーボーに生えている。
民家も疎らだが趣きのある家屋ばかりだった。
誰もが一度は想像する田舎がヤマトの視界一杯に広がっていた。

「一人でも来て良かった」

満足そうに呟くと舗装された道をゆっくりと歩いた。

十分程歩いた。
今の所、村人の姿は無い。
田園と疎らな民家の風景が続くだけ。
遠目に多少密集した家屋が見えるがもう少し掛かりそうだ。
その時だった。前方、道路の脇に生えている数本の木々の陰から、人が一人、姿を現した。
突然現れた村人にヤマトは驚く。
村人も同じ様で目を丸くしてヤマトを見つめた。
村人は女性。歳は、二十歳にいっていない様に見える。
服装は年に相応しくない程ラフで、青いジーンズに白いTシャツだけ。
胸辺りまである黒い髪はしなやかで顔立ちは人形の様に整っていた。
簡単に言えば美人。

「……やぁ、こんにちは」

相手の警戒心を緩める様に極めて優しい声と笑顔でヤマトは挨拶をした。
挨拶された少女は少しばかり警戒しながらも、

「こんにちは」

そう返した。ヤマトは少女の二メートル前まで歩いていき、そこで止まる。

「この村の人ですか?」

「…はい、そうです。貴方は?」

「あぁ、俺は観光でこの村に来ました、羽柴ヤマトって言います」

無表情だった少女の表情が微妙に変わった。
例えるなら中々見つからなかったパズルのピースを見つけた時の嬉しさと安堵が混ざった様な。
ヤマトはその変化に気付き、首を傾げ、眉間に皺を寄せた。
少女はヤマトを頭の先から指先までゆっくりと見つめる。
戸惑いを隠せないヤマト。
少女はヤマトをじっくり見つめた後、何かを考える様に顎に手を当て、う〜んと考え始めた。

「……あの、何か?」

居た堪れなくなったヤマトは少女に声を掛けた。
少女は真っ直ぐにヤマトを見つめ、口を開いた。

「貴方は羽柴ヤマトさん?」

「そう、名乗った筈ですけど…」

「ナガト君のお友達」

ヤマトは言葉を失った。
ヤマトの驚いた表情とは逆に少女は柔らかい笑顔を浮かべた。

「やっぱり」

「君は……ナガトの友人?」

少女はこくんと頷き、名前を名乗った。

「私は徳川チトセと言います。ナガト君とは幼馴染です」

幼馴染。その言葉を聞いたヤマトは少し、違和感を覚えた。
ナガトは一度も幼馴染がいるとは言わなかった。
それだけではなく、自分の事をあまり自分からは話そうとしなかったし、聞かれても詳しくは喋らなかった。
過去の自分を知られたくないとかそういうのでは無かったとヤマトは感じていたが、今となっては聞く術はもうない。
ヤマトは改めて目の前に居るチトセと言う名の少女を見た。

「チトセさんでいいかな?」

「チトセで良いですよ。私、今年で十九歳になる年下ですから」

十九歳。外見は確かにその位の年に見えるが、纏う雰囲気はかなり大人びているという印象をヤマトは持った。
ただ立っているだけなのに背筋はしっかりと伸び、手は身体の前で重ねられ、足の開き具合も綺麗だった。
それだけなのにどうしてこうも綺麗で栄えるのだろうとヤマトはぼんやり考えていた。

「どうかしましたか?」

口を開かないヤマトを不思議に思ったのか、居た堪れなくなったのか、チトセがやんわりと聞いた。

「あ、いえ、なんでもありません。えっと……チトセさんは此処で何を?」

思わずまたチトセさんと呼んでしまったヤマト。
チトセはクスリと笑い、今度は訂正せずにヤマトの質問に答えた。

「………神主様の御親戚のお家にのぼりを取りに行く途中だったのです」

「のぼり、ですか?」

「はい、明後日のお祭りで使うのぼりです」

「お祭り、ですか?」

ヤマトは困惑していた。
祭りがあるとは全く聞いていなかったからだ。
今日、ヤマトはこの天城村を訪れたのはナガトが死ぬ前からこの日に二人で訪れようと決めていた日にちだった。
何故その日なんだ?と聞くとナガトは秘密だ、と言って笑ったのをヤマトははっきりと覚えていた。
大事な事をその時まで言わないのはナガトの癖と言うか、性格だった。
楽しみは最後まで取っておくと言う感じなのだろう。
その方が感動するからと言っていたのをヤマトはぼんやりと思い出していた。

「お祭りの事、知らなかったのですか?」

「はい。ナガトが教えてくれなくて。今日もナガトが死んでなければ、二人で来る予定でした」

「そうだったのですか。ナガト君は昔から変わっていなかったのですね」

昔を思い返す様にチトセは空を見上げ、遠くに行ってしまった、ナガトの事を想った。

「すいません、手伝って頂いちゃって」

「いえ、自分から申し出た事なので気にしないで下さい」

ヤマトはチトセと並んで歩いていた。
二人の手にはのぼりが握られている。
神主の親戚の家にのぼりと取りに行く途中だった事をチトセは思い出し、ヤマトはそれを手伝うと申し出たのだ。
最初は断っていたチトセだったが、ヤマトがどうしてもと言うので手伝ってもらっている様だ。

「神社に着いたら休んでいって下さい。お茶もお出ししますので」

「ありがとうございます。後、明後日あるお祭りと言うのはどういったお祭りなんですか?」

「御神木大祭りと言います。この村の神社には『宿木』と呼ばれる樹齢千年の御神木が祀られています。
その御神木にはこの村の死者の魂が宿り、二日後、『天昇り』の日に死者の魂は天に昇っていくと伝えられています」

「つまり、死者を鎮めるお祭り?」

「はい。それと、村の一年間の実りと安全を祈願するお祭りです。この辺りでは大きなお祭りで近隣の村からも多くの方がお見えになるのですよ」

小さな村のお祭りと言えば小規模なモノを想像するヤマトだったが此処のお祭りはかなり大規模なお祭りの様だ。

ヤマトはある事を疑問に思い、チトセに尋ねた。

「ナガトは」

「え?」

「ナガトの魂もその御神木に宿っているんでしょうか?」

ナガトはこの村出身だったが、彼が死んだのは森と山、大自然に包まれた静かなこの村では無く、喧騒に包まれたコンクリートの大都市東京。
この地から遠く離れた場所で肉体を失ったナガトの魂は何処に行ったのか。
無事、此処に辿りつけたのか、ヤマトは疑問に思った。

「大丈夫です。ナガト君の魂はしっかりと御神木に宿っています」

「何故、分かるんですか?」

「魂と言うのは自分が帰りたいと思う場所に帰ってくると、神主様は仰っていました。
ナガト君は中学の時に御両親のお仕事の都合で引っ越してしまいましたが、彼は此処に戻ってくる事を望んでいたと、私は信じています」

ヤマトは考えた。ナガトは此処に帰ってきたかったのか。
ナガトと出会い、親しくなり、共に旅行をしていく中で、ナガトはある事を言っていた事を思い出した。
『色んな場所を旅してきたけど、やっぱ故郷が一番だ』と。
その時ヤマトはどんな場所だ、と聞いた。
返ってきた答えは、『いい場所だよ』それだけだった。
その短い言葉の中には故郷に対する思いが込められていたのだろう。

「俺もそう信じています」

ヤマトにとってナガトは無二の親友だった。
ナガトもそう思っていたと信じている。
ナガトが自分と来たいと願った自分の故郷。
一緒には来られなかった。
ナガトは先に来ていたのかもしれない。
そして、親友が来るのをずっと待っていた。
ヤマトは不思議と心の奥底からそう思えた。
二人は神社に到着した。杉の木に囲まれた立派な社が、鳥居をくぐり、石畳を進んだ先に存在していた。
そしてその社の後ろには大きな杉の大樹が天に向かって地に根を張り、神社全体を包み込んでいる。
チトセの言っていた御神木だ。樹高は三十メートル近くあるだろう。幹周も目測で十五メートルはある。
普通の杉程ある太い枝の先には葉が所狭しと生い茂っていた。
屋久島の縄文杉と比べても見劣りしない立派な大樹だ。
立派な姿にヤマトは口を半分開いて御神木を見上げていた。
樹齢千年と言われて納得出来るその姿。崇められるのも分かると心の中で呟く。

「御立派でしょ? この大樹こそ私達が『宿木』と呼ぶ御神木です」

「ナガトが秘密にしていたがったのも分かる気がします」

二人は小さく笑いあった。
チトセに連れられて、社務所に向かい、建物の中に入った。
二人が入ってくるのを察していたかの様にタイミング良く、奥から一人の女性が姿を現した。
二十代半ば程の巫女服の女性はヤマトの姿を見て、一瞬驚いた顔をするが直ぐに笑顔で二人を迎えた。

「チトセちゃん御苦労様。其方のお方は?」

「羽柴ヤマトさん。ナガト君の東京でのお友達です。
のぼりを取りに行く途中で偶然お会いして、大変恐縮だったのですがのぼりを運ぶのを手伝って頂きました」

「まぁ、ナガト君のお友達。遠路遥々ようこそお越し下さいました」

女性はヤマトに深々と頭を下げる。ヤマトもつられて頭を下げた。

「チトセを手伝って頂いた様で、ありがとう御座います。よろしければ上がっていって下さい。お茶をお出ししますので」

先ほどチトセにも言われた台詞だった。
ヤマトは厚意に甘える事にした。のぼりを玄関脇に置き、靴を脱ぎ、チトセに案内され、座敷に招かれた。
十五畳程の広々とした座敷だった。長机が二つ並べられていて囲む様に座布団が敷かれている。
ヤマトは入口に近い場所に荷物を降ろし、座る。案内をしたチトセは一言言って、部屋を出ていった。
五分程して、一人分のお茶と茶菓子が乗ったお盆を持ってチトセが戻ってきた。

「お待たせしました」

ニッコリ笑ってチトセがヤマトの前にお茶と茶菓子を置く。ヤマトは礼を言うとお茶を一口、口の中に含んだ。
程良い苦みと甘みが口の中に広がる。多少なりとも動いた後だからか、普通の緑茶が凄く美味しく感じられた。

「美味しいです」

「良かった。お口に合ってなによりです」

二人は二十分程、他愛もない話をした。
チトセはヤマトが思っていた以上に良く喋った。話した内容は様々だったが一番多かったのはヤマト自身の事だった。
生まれも育ちも東京で両親は共働きをしている事。
一人っ子だと言う事。仕事は製造業をしている事。
ナガトとは旅行を通じて知り合い、今まで何十か所も二人で旅をした事。
ヤマトは自分でも驚く程自身の事を話していた。
会ってまだ一時間程度しか経っていないのに、何故かチトセには心を許せた。不思議な感覚だった。
そういえばと、ヤマトは思い出す。
ナガトと初めて会った時も同じ様に、直ぐに打ち解け合った事を。
田舎の人は親切だとか良く聞くけど、とヤマトは考える。親切なだけの相手と直ぐに打ち解け合える程ヤマトは社交性が高いとは言えない。
それに田舎だからと言って皆が皆親切な訳ではない。
他所の人間を良く思わない人も居るし、警戒心が強い人間も居る。
何処かのテレビ番組の様に事前にアポでも取らない限り、泊めてくれる親切な人間は稀にしか居ないだろう。
いや、もしかしたらゼロかもしれない。
考えたが確信に足る様な理由は見つからなかった。
だがヤマトにとって、それはあまり重要な事では無いので考える事を放棄し、チトセとの会話を楽しんだ。

「ところでヤマトさん。今日のお宿はどうされるご予定ですか?」

「宿……全然考えていなかった」

日帰りの予定は無かったとはいえ、宿の事は殆ど考えていなかった。
ヤマトには楽観的な部分があり、なんとかなるといつも思っている。
当初の予定では明日の夕方に村を出て、新幹線を降りた駅周辺のホテルで一泊してから帰る予定だった。
一日くらいなら野宿でも良いかと思っていたが、ヤマトはチトセの言う御神木大祭りを観てみたいと思いはじめていた。
お祭りは二日後。流石に二晩も野宿をする訳にはいかない。
最悪、警察のお世話になるかもしれない。痴漢の件もあり、それだけは避けたいとヤマトは思っていた。
困った表情を浮かべるヤマトの傍らでチトセが口を開いた。

「あの、御迷惑でなければ知り合いのお宿を紹介致しますが?」

困った表情のヤマトをみかねてか、それとももともとそのつもりだったのか、どちらにしてもヤマトにとっては助け舟に違いない。

「お手数でなければお願いします」

ヤマトとチトセは旅館の前に立っていた。
神社から東側、森林地帯の少し手前にある民家がある程度密集した地帯。
密集といっても都会の様にギュウギュウ詰めではなく、民家と民家の間は十メートル以上離れていて民家の数も二十そこそこ。
二人の目の前に建っている旅館はその中で一番大きかった。
それでも観光地にあるような旅館よりは小さい。外見から一度に泊まれるのは十数組程度だとヤマトは勝手に推測した。

「この旅館は私とナガト君の幼馴染、カムイ君が経営している旅館です」

「ではナガトとチトセさんの家はこの近く?」

「はい、あちらが私の実家で、そちらがナガト君の住んでいたお家です」

旅館から北に二つ離れた民家がチトセの家で、道路を挟んでその向かいがナガトの家の様だ。
チトセの家はずっしりとした佇まいの純和風建築の建物。
築何十年もありそうな貫禄ある家だ。
しかし、奥側の方だけはやや新しい様で壁や屋根の色艶は他よりも良い。
増築したのかもしれない。もしくは老朽化に伴いリフォームしたのか。
どちらなのかはヤマトには判別出来なかった。
一方、ナガトが住んでいた家は随分寂れていた。
こちらも純和風建築の建物なのだが、家の庭は雑草だらけ、壁も所々ヒビ割れていて、長い間人が住んでいない事を物語っている。
もしかたら野良猫が住み着いているんじゃないかと、ヤマトは思った。
そんな事をぼんやり考えていると旅館の両開きのガラス戸が開いた。
ヤマトがそちらを向くと、自分と同い年くらいの青年が笑顔で中から出てきた。

「やあ、いらっしゃい、チトセにヤマトさん」

「こんにちはカムイ君。ヤマトさん、此方の方が明智カムイ君です」

「初めまして、カムイと言います」

「ヤマトです。お世話になります」

チトセの提案で、ヤマトはこのカムイが経営する旅館に泊まる事になった。
社務所を出る時、チトセが電話でヤマトの事を話した様で、カムイは笑顔で二人を迎えた。

「話はチトセから聞いています。さっ、中へ。お部屋に案内します」

カムイに連れられてヤマトは旅館の中に入る。
階段を上り、一番端の部屋に到着した所でカムイは振り向きながらドアを開けた。

「どうぞ、中へ」

ドアをくぐり、靴を脱いで部屋の中に入ったヤマトはまず息を呑んだ。
大きな旅館や老舗旅館とは違う、家庭的な雰囲気の部屋だった。八畳ほどの室内、少し色褪せた畳と襖。備え付けられたブラウン管テレビは10インチとかなり小さい。
大きな旅館には無い温か味のある旅館、ヤマトはそう思った。

「気に入ってもらえましたか?」

カムイが後ろから聞いた。ヤマトは無言で頷き、振り返る。

「今まで泊まった旅館の中で一番です」

「そう言って頂けると光栄です」

ニッコリと笑うカムイにつられてヤマトも笑った。
ヤマトは荷物を降ろし、必要な物だけ身につけると部屋を出て鍵を閉めた。
カムイと並んで廊下を歩いた。階段を降り、玄関まで戻ってくるとチトセがソファーでのんびりと寛いでいた。

「戻ったよ」

「おかえり」

「これから二人はどうするんだい?」

カムイの質問にチトセが答えた。

「夕飯までまだ時間があるからヤマトさんに村の中を案内してこようと思うの」

「分かった。六時から夕飯だからそれまでには戻ってこれる様に頼むぞ、チトセ」

チトセはうん、と頷きヤマトと一緒に旅館を後にした。
残されたカムイはさて、と一人呟き、管理人室と書かれたドアを開けた。

 

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