不変なるモノ、変化する者
 
 
 
 
今後の人生を左右してしまう選択に迫られることは誰にでも訪れる。
 
どちらを選べば、幸福になれるか。
 
おそらく誰もがそう思って突きつけられた選択を吟味し、選ぶだろう。
 
どちらを選んでも幸福はない――時として非情な選択を迫られる。
 
彼女はそんな現実を突きつけられた一人――いや、一匹だ。
 
どちらしか助けられない。
 
両方助けるなどと言う戯言は所詮、都合の良いシナリオの中でしか起こり得ない。
 
絶望を知らぬ、生温い人生を送った者の反吐が出るような綺麗事だ。
 
自分自身の弱い力では両方助けることが出来ないのは明白で、考える時間はなかった。
 
火薬と悪意の臭いに目眩がした、それに気付かずに笑っている笑顔を守りたいと思った。
 
悪意が牙を剥く。
 
炸裂する爆弾――閃光、爆音、衝撃
 
人の姿に化けた彼女は、自分を抱いていた少女を守るように優しく、強く抱き締めた。
 
「ごめんなさい」
 
誰にも届かない震えた声は爆音に掻き消された。
 
視界の隅で爆発に巻き込まれ、人からただの肉塊となった少女の両親、自分の大切な家族。
 
背中が焼けるように痛い。
 
それ以上に心が痛い。鋭利な刃物でズタズタにされたような痛み。
 
耐えた、ただただ耐えた。
 
守るべき、小さな存在の為に。
 
 
 
月が照らす夜道を傷ついた一匹の猫――彼女が歩いていた。
 
よろよろと足取りはおぼつかず、今にも倒れてしまいそうなほど弱っているのは明白だ。
 
それでも彼女は休もうとせず、まるで何処か遠くに行くことを望んでいるように進み続けた。
 
『大っ嫌い!!』
 
最愛の人の言葉が脳裏に木霊する、何度も何度も。
 
一方的に突きつけられた拒絶の言葉。
 
彼女はそれを甘んじて受け入れた。
 
少女は何も悪くないのだから。
 
十歳の少女が理不尽な暴力で両親を失って、平常でいられるものか。
 
ずっと自分に言い聞かせた。
 
拒絶されたことにもっともな理由を作って、壊れそうな心を必死に守った。
 
彼女は何処までも歩く。
 
繁栄を象徴する高層ビル群を抜け、整備された住宅街を抜け、外へ外へ、誰もいない場所へ。
 
何度、昼と夜が繰り返されただろうか。
 
彼女は住んでいた街を離れ、人の生活圏から離れ、見知らぬ山中に入っていた。
 
昼間だと言うのに薄暗く、そこかしこから獣の気配がする。
 
彼女はようやく、歩みを止め、倒れこむようにその場に座った。
 
このまま、死んでしまおうか――そんな考えが脳裏を過る。
 
守るべき者に拒絶され、生きていく価値はなくなった。
 
今となっては死こそが最大の幸福なのかもしれない。
 
ゆっくりと目を閉じ、考えることを放棄する。
 
疲労と全身の痛みで意識が朦朧とする。
 
と、何かの気配が近づいてくる。
 
重々しい足取りは雑食性の動物だろうか、このまま餌になるのも悪くないと自嘲気味に笑う。
 
そのまま、目覚めることのない眠りへと落ちていった。
 
 
 
暖かい――その感覚で意識が覚醒した。
 
ゆっくりと目を開けると、今時珍しい木張りの天井。
 
「目が覚めました?」
 
室内に女性の声が響く。
 
声の方に顔をむけると割烹着姿の妙齢の女性が椀の乗ったお盆を持って立っていた。
 
同時に自分が人間の姿であることに彼女は気づいた。
 
「お粥です。食べれますか?」
 
女性の問いかけに頷きかけて、止めた。
 
視線を逸らし拒絶の意思を示す。
 
あらあらと困ったような笑い声が聞こえ、女性の気配が遠ざかる。
 
状況から判断するに、あの時、自分に近づいてきたのは今の女性で間違いないだろう。
 
そして救われた。
 
身体には包帯が巻かれ、痛みも随分引いている。
 
人間の姿を見て驚かないことを察するに、女性も自分と同じ存在だと想像できた。
 
「よろしければ、お名前だけでも教えて頂けませんか?」
 
女性は背をむけたまま、聞いてきた。
 
彼女は逡巡しつつも、相手は自分を助けてくれたのだからこれ以上の失礼を重ねる訳にはいかず、ぶっきらぼうに名乗る。
 
「マタタビ」
 
「良い名前ですね。私はサクヤと申します」
 
サクヤと名乗った女性は振り返って微笑んだ。
 
目が合う。思わず逸らす。
 
おそらく、また困ったような表情で笑ったと、マタタビは感じた。
 
パチパチと窯の薪が焼ける音とサクヤが何かを作る音だけが響き、会話はない。
 
「ねぇ」
 
マタタビは声だけサクヤにむける。
 
「なんでしょう?」
 
「どうして私を助けたの?」
 
質問に意味などない。ただ、沈黙が苦しかった。今までがずっと賑やかだったから。
 
「仲間を助けるのは当然ですよ」
 
「私はただの化け猫。仲間でもなんでもないわ」
 
「同じ神ではありませんか」
 
「私は…」
 
神なんかじゃない。
 
こんな無力な存在が神を名乗っていいはずがない。
 
大切な存在すら守れず、最愛の人に拒絶され、途方にくれるだけの自分が神であっていいのか。
 
「私は、神じゃない」
 
はっきりと声に出して告げた。
 
サクヤから返事はなく、また沈黙が流れる。
 
「怪我が治るまで、此処にいて下さい」
 
返事はしなかった。
 
サクヤはマタタビの枕元に粥の入ったお椀を置くとそのまま、外に出て行った。
 
一人になったマタタビはなんだか意地を張るのも馬鹿らしくなり、身体を起こすと匙を持った。
 
粥からは湯気が立ち、味噌の良い香りが食欲を刺激する。
 
数日間、水しか口にしていなかったマタタビの腹から虫が鳴いたが、猫舌である彼女がそれを頬張ることが不可能でしっかりと冷まし、一口ずつゆっくりと食べる。
 
茶碗一杯分の粥をしっかりと味わいながら食べ終え、心にゆとりの出来たマタタビは改めて室内を眺めた。
 
現代に似つかわしくない、平屋の建物。
 
サクヤは此処に一人で住んでいるだろうか。
 
悪い人ではない、しかし何処か儚い感じもした。
 
後でちゃんと礼を言おう――食器を洗い場に片づけ、マタタビは布団に潜り込んだ。
 
 
 
サクヤとの生活も四日目に突入した。
 
当初よりはサクヤに対する警戒心も薄れ、何気ない会話も増えている。
 
「このお米って何処から調達しているの?」
 
二人が囲む食卓は質素だが、毎回米が並ぶ。
 
山菜やキノコと違い、その辺に自生しているでもないし、何処から調達しているのか。
 
「社に奉納されたお米ですよ」
 
「貴方が祀られている?」
 
「他の社から奪うほど、困っていませんよ」
 
サクヤは可笑しそうに肩をすくめ、山菜の味噌汁を啜る。
 
「サクヤは、どうして社じゃなくてこんな山奥に住んでいるの?」
 
「騒がしい場所は苦手なんです」
 
「確かに此処は静かだものね」
 
鳥のさえずりと木々がざわつく以外に音のない世界。
 
森林地帯の開発は進み、こういった場所も少なくなってきている為、ここまで静かで落ち着いた場所も珍しい。
 
マタタビにとっても傷を癒すには最高の場所といえる。
 
「でも、それじゃ此処に住んでいる理由にならないよ」
 
ジッと、サクヤを見つめるマタタビを彼女が視線で問い返す、何故と。
 
「だって貴方は神様だもの。社にいることが仕事。それを放棄してまでどうして此処にいるの?」
 
質問に意味がないことはマタタビ自身がよく分かっていた。
 
今の時代、神を信仰する者はいない。
 
奉納も神職者が事務的な流れで、あるいは観光客に対するパフォーマンスで行っているだけ。
 
神社は過去の遺物――神が信じられていた時代の文化として観光地と化している。
 
神様が社にいることを誰も重要視しない。
 
そもそも誰も神様を信じていない。
 
刹那――脳裏に過る三人の顔。
 
神を自分達を信じ、必要としてくれた人達。
 
頭を振って、すぐに忘れ去る。
 
サクヤは椀と箸を置き、マタタビを真っ直ぐ見つめる。
 
「質問を質問で返してしまいますが、聞いていいでしょうか?」
 
「なに?」
 
「神は何だと思います?」
 
あまりにも抽象的で意図を理解できない質問にマタタビは黙り、それでも考える。
 
神とはなんだろうか。
 
信仰の対象? 絶対的な存在? 天地を創造した君臨者? 忘れられたモノ達?
 
サクヤの口から出された答えはそのどれとも違っていた。
 
「神とは不変なるモノ」
 
「不変……」
 
「まだ私達を人々が必要としていた時代。我々は絶対でないといけなかった。変化することは許されなかった。退くことはおろか、進むことさえも」
 
「でも、より力をつければそれだけ信仰も」
 
「より力を付ける。それは人々にとって、信仰していた神が不完全であると言ってしまうようなものです」
 
「……」
 
「不完全な神を信仰していたとすれば人は嘆き、信仰は弱くなる。逆に力が衰えれば、怒る。だから我々は不変でなければならなかった。絶対者としてあり続けなければならなかった」
 
それが、どれほどの痛みを伴っていたのか。
 
想像するだけで心が悲鳴を上げた。
 
「人々が弱いうちは不変たる神々も信仰する価値があった。でも、不変はやがて、変化する者に蹂躙される」
 
「だから人は神を必要としなくなった」
 
サクヤは頷く。
 
「人は前へ前へと進む。だけど、私達は前に進めない。やがて人は神を追い越し、信仰する必要がなくなった。でもそれは私達にとって幸せなことだと私は思うのです」
 
「必要とされなくなることが幸せ?」
 
サクヤは昔を思い返す。
 
信仰によって満ち足りた自分。己を必要としてくれる人々。
 
なんの不満があるのか。
 
他人からみればそう映るだろう。
 
「我々は信仰によって生かされてきました。今は信仰の残り香で生き長らえている状態。やがて神々の魂は消滅するでしょう。神も、人と同じ。死ぬのが怖い。だから必死で信仰を集め
た」
 
でも、とサクヤは続ける。
 
「今思えば、不変は死より辛い日々でした。出口のない迷路を延々と彷徨っているようで、真っ暗で終わりのない道をずっと歩いているようで」
 
サクヤの表情が過去の苦悩に歪む。
 
マタタビは咄嗟に手を伸ばし、彼女の手を握った。
 
ハッと顔を上げたサクヤは驚いた後、いつものように微笑む。
 
そして言葉を繋ぐ。
 
「人々が我々を必要としなくなって、ようやく我々は変われるのです」
 
死という『不変』への最初で最期の変化。
 
サクヤはそれを渇望していた。
 
「死が、幸せなんですか?」
 
マタタビは泣いていた。
 
必要とされなくなることが幸せなのか。
 
死が幸福なのか。
 
――アオイに必要とされなくなった胸の苦しみは幸福から来る痛みだったのか。
 
そんなはずない。
 
辛かった。
 
最愛の人に拒絶され、別れ以外に選択することが出来なかったのが幸福であっていいはずがない。
 
嗚咽を漏らすマタタビの涙をサクヤが優しく拭う。
 
「泣かないで下さい」
 
「私は辛いです。必要とされなくなることが、心が痛いです」
 
アオイと過ごした日々をマタタビは話した。
 
それがどれだけ幸福で、別れがどれだけ辛かったのかも。
 
「貴方は素晴らしい方と出会えたんですね」
 
それは嫉妬するようで祝福するようななんともいえない声と表情だった。
 
「私達が不変を選んだのはそうすることでしか必要とされなかったから。でもその方ならどんな貴方でも受け入れてくれます」
 
「でも私は拒絶された」
 
「必ず、また共に笑いえる日が来ます」
 
「本当に?」
 
すがるようにマタタビは問う。
 
サクヤは笑顔で頷き、マタタビの手をそっと握り締める。
 
優しい暖かさがマタタビの全身を駆け廻り、不安が一気に消え去る。
 
「おまじないです。神様のお墨付きのね」
 
満開の桜のような笑顔にマタタビもつられて笑った。
 
今すぐじゃなくてもいい。
 
もう一度、アオイと共に生きたい。
 
強く、そう願った。
 
 
 
「行ってしまうのですね」
 
どのくらいの時間、サクヤと共に過ごしたか。
 
冬を数回は越えたはずだ。
 
サクヤは優しく、此処も静かで過ごしやすい場所だった。
 
でもずっと此処にいる訳にはいかない。
 
他に行くべき場所がある。
 
「お世話になったわ」
 
「また遊びにいらして下さい」
 
「いつか、きっと来るわ」
 
笑顔で別れる二人。
 
マタタビは猫の姿で歩き出す。
 
まずは彼女を探さないといけない。
 
何処にいるか見当もつかないが、必ず会えると信じている。
 
神様のお墨付きなのだから疑う余地さえない。
 
マタタビは歩き出す。
 
前へ、前へと。
 
不変なるモノから変化する者へ。
 
 
 
 
 
 
 

 
――神は虚構。
 
そう思っていた。
 
でも違う。
 
彼らも自分達と同じ、生きている存在なんだと今なら言える。
 
「ヒナタちゃん」
 
名前を呼ぶと娘は笑顔で飛びついてきた。
 
彼女の面影――満開のヒマワリのような眩しい笑顔。
 
遅れて、歩み寄ってくるあの人と猫の姿。
 
二人にも笑顔をむける。
 
いつもの澄ましたような笑顔と人懐っこい鳴き声。
 
大切な人達。
 
二度と失わないように、私は生きる。
 
 
inserted by FC2 system