「血を流す水」

 

   たった一滴――一滴の真水を巡って何倍、何十倍、何百倍、何千倍の血が流れる。

 環境破壊、人口増加、経済低迷、テロ紛争――幾つもの要因が不幸にも重なり、世界は一滴の水を飲む為に、途方もない金を払わなければならなくなった。

 だが紙幣と言うのは平和が成り立っているからこそ価値のあるもので、国際社会が破綻した事により紙幣は只の紙切れとなり、真水を巡って、人々は殺し合っていた。

 日本――世界一の経済大国アメリカの三十分の一の国土しかもたないが世界一水資源に恵まれた国と言われていた。

 年間約一〇〇〇億?の水資源を使用していた日本は十年前の世界規模の水不足により年間水資源使用量は三分の一に低下。結果、国民の半分が安全な水を飲めず泥水を啜って疫病に冒され、水不足による食糧生産低下により三分の二の国民が満足に食事をする事も出来ず、結果五年で五千万の国民が餓死、或いは疫病で死亡した。

 餓死者の急増は日本や発展途上国に限った事ではなく、欧米等の先進国でも水不足により多数の餓死者や病死者を出し、七十億いた人類は、三十億まで減少した。

 それでも真水は不足し、国々は内戦状態に陥り、日本でも西と東に別れ、水源を巡って泥沼の戦争状態にあった。

 

 最前線にあり、国内最大の水源地の一つ――かつては滋賀県と呼ばれた県で西軍と東軍は百日にも及ぶ攻防を繰り広げていた。

 自然豊かな名残は一切なく、草木の枯れた禿山と平野が延々と続いているだけの国土。

 水源地となっている場所は現在西軍の占領下。東軍は水源地を奪取する為に五千の兵力を投入していた。

 大地は血に染まり、銃弾すら生産する余裕はなく、手に持つ武器はこん棒や剣等の近接武器。素手で戦いに臨む者もいれば、まだ十歳にも満たない子供まで武器を持ち、水を求めて戦っていた。

 「死にやがれ、この反逆者め!!」

 東軍に所属する二十代半ばの青年が憎しみと喜びの混じった雄叫びを上げ、女性でまだ二十代にもなっていない西軍の兵士をナイフで刺し殺した。

 女も子供も老人も関係無い。敵を殺さなければ自分が死ぬ。自分の所属する軍以外の人間は反逆者――殺すべき相手。

 青年はこの百日の戦いで既に三百人以上殺していた。子供も多数いたが青年は一切気に留めなかった。

 東軍の士気は高かった。通常、満足に食事を取れない軍隊は士気が下がるものだが、極限の飢餓が逆に士気を上げる。目の前には水がある。水があれば穀物を育てられる、身体だって洗える、衛生的な治療だって受けられる。

 真水が不必要なものなんて無い。穀物や野菜、家畜を育てるのにも水が必要、工業に置いても真水は必要不可欠の存在で、医療に関しても同様だ。

 真水が全てを支配すると言っても過言ではない。石油や黄金より、価値のあるもの――それが真水だ。

 西軍を退ければ真水が手に入る。生存本能に近い混沌とした感情が東軍の兵士達を駆り立てていた。

 無論、それは西軍も一緒だった。この水源地を取られれば、西軍に属する四分の一の国民はまともな水を口に出来なくなる。双方とも引けない理由があった。例え最後の一人になっても戦う事を止めないだろう。

 「次はどいつだ!! 男でも女でも掛かってこい!!」

 青年が獲物を求めて吠えた。手も脚も、顔も服も全身真っ赤に染め、持ったナイフを振りかぶり、向かってくる西軍の兵士達を次々に殺していった。

 青年は今日の戦いで十人以上は殺しただろうか。拮抗していた戦局は東軍に傾きつつあり、西軍の数は肉眼で分かる程に減っていた。

 東軍の士気は更に上がり、青年も雄叫びを上げ、獲物を求めた。

 と、青年の前に一人の女性が立ちはだかった。西軍の軍服を纏い、手には血に濡れていない棍棒を持ち、悲しみを帯びた眼で青年を見つめていた。

 「次の獲物はお前か!!」

 狂気を吐き散らし、青年は女性に斬り掛かった。軽い身のこなしで攻撃を避けた女性は悲しみを湛えたまま、叫んだ。

 「もう止めて下さい!! こんなことしたって何も解決しません!! 協力し合うべきじゃないですか!? 我々は元々日本に住む同じ国民だった。どうして同じ国の者同士が殺し合わなければならないんですか?」

 「綺麗事言ってんじゃねぇ!! この国に国民全員を養うだけの水なんて残ってないんだよ!! 東と西、どちらかが全滅しないと誰も救われないんだ!!」

 女性の叫びに青年は聞く耳を全く持たず、罵詈雑言を吐きながら尚も斬り掛かった。

 女性は攻撃を避けるだけで一向に攻撃しようとしなかった。時間が経つに連れて女性の表情は更に悲しみを帯び、遂には目尻に涙を浮かべた。

 「東と西、どちらかが全滅したらまた残った方が二つに分かれて殺し合うだけです!! 負の連鎖は終わらないんです!! お互いの合意の元、戦いを終わらせない限り、戦いは終わりません!!」

 どちらかの軍が滅びれば、確かに残りの国民、全員が充分に生きていける真水は確保できる。

 だが人はより便利を、より贅沢を求める生物。残った人々はやがて自分の利益を求め、殺し合う事になるだろう。

 人とはそういう風に出来ているのだから。

 女性はそれが分かっていたからこそ、戦いが始まってから相見えた相手を一切の暴力に頼らず説得しようとした。だが誰ひとりとして耳を貸さなかった。

 秩序もモラルも無くなった世界で、言葉では誰も救えない。暴力だけが、生きる道であり、救われる唯一の方法であり、秩序だった。

 女性も分かっていた。だが賭けたかった、人の可能性に――人と人は助けあると言う幻想に縋りたかった。

 「お願い、話を聞いて……」

 女性の瞳から大粒の涙が溢れ出し、血で染まった大地に落ちた。

 青年は戦う事を止めようとしなかった。止められない理由があった。

 青年には護らなければいけない幼い弟と妹がいる。

 弟は飢餓に苦しみ、妹は疫病に掛かり、一日も早くこの戦いを終わらせて水源地を確保しないと命が危ない。

 女性の綺麗事などに聞こえてすらなかった。

 「どうして、誰も分かってくれないの……!!」

 涙声でこぼした女性は青年に背を向け、逃げ出した。

 「逃がすか!!」

 青年も走り出し、二人が大地を踏みしめる度に、血が飛び散り、雨の中を走っているかの様な雨音が響き続けた。

 女性の逃走劇は十分以上続いた。その間、ずっと血は飛び散り続け、踝までかさが増えていた。

 「捕まえたぁ!!」

 青年は女性の肩を背後から掴むと、乱暴に引き寄せ、地面に叩き伏せた。

 背中から倒れる女性に青年は馬乗りになり、まず肩にナイフを突き刺した。

 女性の絶叫と、更に流れ出る血が青年の加虐心に油を注いだ。

 ナイフを引き抜き、今度は右腕を刺した。次は左腕、次は右太腿。

 戦い慣れしている青年は何処を刺せば死なないか、何処を刺せば苦しくても死ねないかを知っていた。

 急所を避け、青年は何十か所も滅多刺しにした。

 女性は僅かに呼吸をしているだけで殆ど虫息だ。

 「はははっ、ざまあみろ!! 俺に会っちまった運命を呪いな」

 最後の一撃を心臓にぶち込むべく、青年はナイフを振り上げた――その時、女性の左手が青年の顔に伸びた。

 冷たく濡れた手が青年の頬を一瞬撫でたかと思うと女性の左手は水音を立てて大地の上に横たわり、動かなくなった。

 青年の動きは何かに魅入られた様に止まり、狂気に満ちた双眸は絶望へと色を変え、女性の顔を見つめていた。

 青年は気付く、自分が水源地である琵琶湖の畔にいる事に。

 琵琶湖は夕日を浴びて真っ赤に染まり、幻想的な景色を作り出していた。

 「なんだよこれ……」

 震えた声で青年は呟いた。琵琶湖は夕日で赤く染まっている――否、元から赤いのだ。

 そこかしこに死体が浮かび、水は赤く濁り、とても人が飲めるものではなかった。

 青年はナイフを投げ捨て、水を掬った。

 手の平が見えない程、掬った水は真っ赤だった。それはもう血だった。

 百日に及ぶ戦いで流れた血は最も低い位置にあった琵琶湖へと注ぎ、貴重な真水を只の血の池へと変えてしまった。

 もし、誰かが女性の声に耳を貸し、戦う事を止め、貴重な真水を分け合う事を選択したなら、結果は変わっていたかもしれない。

 日本一の水源地だった琵琶湖はもう無い。血の池と死体の山が存在するだけになってしまった。

 青年は叫んだ。本物の獣の叫びを上げ、必死になって水を掬った。

 何処かに綺麗な真水がある筈だと信じて。そんな事有り得ない筈なのに、青年は何処かに真水があると思い込んでいた。

 「水は何処だ!! あるんだろ!! 隠れてないで出て来いよ!! 弟と妹が待ってるんだ。綺麗な水を待ってるんだ。二人だけじゃない。沢山の国民が俺達の帰還を待ってるんだ!!」

 絶叫とも嗚咽ともとれない声で叫び続けた。神にも祈りたい思いに違いない。しかし、真水は何処にもない。血の池が延々と続くだけだった。

 漸くその事実に気付いた青年は下半身を血の池に浸しながら、泣いていた。

 自分がやったんだ。貴重な水源地を殺したんだ。

 溢れてくる自虐的思考は死者の声の様にも思えた。後悔しても遅いと囁く声が聞こえた気がした。それが自分の心の声だと遅れて気付き、愚かな自分を殺してやりたくなった。

 「なんで、こんな事になったんだよ!!」

 疑問に答えてくれる誰かはいない。もし答えてくれる誰かがいたらどう答えただろうか。

 東と西、協力し合えばこうならなかったと答えただろうか。

 水危機という二十世紀からの問題から目を背けていなければ世界規模での水不足は回避できたと答えるだろうか。

 どんな道を選んでも人間は滅ぶ運命なんだと答えるだろうか。

 答えは分からない。ただもう、手遅れと言う事実だけが枯れた大地の如く横たわっていた。

 二十一世紀――折り返し地点にすら到達せず、水不足と言う危機に直面した人類がその後どうなったか――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――誰も、知らない。

 

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