三話


血の色と、紅い薔薇の色は似ていると思わないか?

カサリ―――ポケットから出した手をドアノブに掛けた瞬間、足元に何かが落ちた。
俺は視線を下に向ける。
足元に小さく折り畳まれた紙切れが転がっていた。
ポケットから落ちたのか? 何故、ポケットに紙切れが?
しゃがんで拾い上げ、紙切れを開く。

「これは・・・」

そこには俺の字で強盗二人を捕まえる段取りが書かれていた。
強盗二人を捕まえる?
ドクン―――胸が高鳴った。同時に手が震えた。恐怖では無い。
自己嫌悪だ。どうしようもない程の。
強盗に向けている憎しみより何倍も強い自己嫌悪。
俺は振り返り、壁際まで小走りで向かうと有無言わず、額を壁に打ち付けた。
鈍痛が頭を電流の様に走り、手足が痺れる。
もう一度、頭を打ち付ける。
目眩がしたが愚かな自分にはこのくらいが丁度良いだろう。
俺は馬鹿だ。
自分が本当にしなければいけない事を見失っていたのだから。
生きたいから抵抗する。当たり前だ、矛盾でも何でもない。
強盗の言葉を真に受けてどうする。
銀行強盗をして、喜太郎さんを殺した奴等の言う事を信じようとした俺が馬鹿だった。
冷静になれ、思い出せ。俺がすべき事を。
強盗二人を捕まえる、昂とそう決めたじゃないか。
俺は昂を裏切ろうとしていた。一番の友人でこの場における唯一の味方を。

「ったく、だらしねぇな、俺は」

自虐的に呟き、可笑しな事に笑みが零れてきた。
笑いを噛み殺し、持ったままだった紙切れを握りつぶした。
カーテンを勢いよく開け、窓を開け、握りつぶした紙切れを全力で投げた。
十メートルも飛ばなかった紙切れは吹雪によって直ぐに視界から消えた。
冷気がより頭を冷静にさせていく。
今の俺は最高にクールだ。

「やってやる」

窓を閉め、カーテンを閉め、俺は今度こそ部屋を出る。
食堂に戻り、昂の向かいに腰を下ろし、心配そうな目を向けてくる昂にニッと笑い掛ける。
それだけで俺達の間の意志疎通は十分だった。
昂も笑みを浮かべ、お互いの意志を再確認する。
強盗のどちらかを捕らえるにしてもタイミングが合わないといけない。
午前中は一度もチャンスが訪れなかった代わりに準備は万全だ。
スキーのストックも拘束用のロープも準備出来ている。
正則に不振がられたが、今のあいつを見る限り、トイレでの一悶着も既に忘れている様だった。
笑顔で強盗とカードゲームをする正則達。その光景にも既に慣れてしまった。
多少の苛立ちが起こるがそれ以上の揺らぎは無い。
心の揺らぎは隙を作る。捕らえるチャンスが来ても心がしっかりと地に着いていなければ失敗する。待っているのは、死だ。
ふと、自分が殺される場面を思い浮かべようとして止めた。
気分が悪くなるだけだ。
今はチャンスが訪れるまでじっと耐えればいい。只、無心に。じっと。
だが、何か釈然としない物が頭の隅で見え隠れしていた。
その正体は一体何なのか―――考える。
作戦の何処かに落とし穴があるのか?
否、落とし穴だらけだ。
チャンスが訪れなかった時の事は全く考えてないし、トイレに行った時に背後から強襲するとは言え、相手は強盗である程度戦闘の経験を積んでいる筈だ。
一方、俺達は只の素人。昂は喧嘩とは無縁だし、俺も高校時代に数回喧嘩をしたくらいで腕に自信がある訳でもない。
もし、最初の一撃を避けられ、反撃されたら? 大声を出されたら? 銃を向けられたら?
成功の確率と失敗する確率は五分五分といった所か。
運任せ・・・なんとも情けない響きだが運に頼る以外無い。
作戦が穴だらけなのは分かっていた。それも覚悟の上だ。
じゃあ、この釈然としない、据わりの悪いもやもやは何なのか?

「くそっ、負けた!!」

強盗の一人、竜太が声を荒げた。だが本気で苛立った声色では無く、負けて悔しいが楽しさの含まれた声だった。
悔しがる竜太の向かいで淳が笑顔でガッツポーズをし、隣に座るもう一人の強盗、貴也とハイタッチを交わしていた。
―――これだ。
その時、俺は悟った。
強盗二人を捕まえる時、淳達が障害になるかもしれないと、思っていた。
だが違った。障害では無く、淳達もまた強盗と同じ様に無力化する対象だ。
強盗二人を捕まえるだけでは意味が無い。
むしろその後、強盗を無力化した後こそが本当の戦いだ。
淳達は強盗を捕まえた俺達に牙を剥こうとするだろう。
それを如何に抑えるか。説得するか。
この異常な状態を淳達に言葉での説得が可能だろうか?
全員を拘束するなんて無理だ。響や翔子ちゃんならともかく、正則は俺より体格が良いし、剛彦さんもいる。
淳達は八人。俺と昂は二人。
仮に拳銃を持っていても、何時間も睨み合いをすれば先に折れるのはこっちだろう。
昂は気付いているのか?
視線を淳達から昂に向ける。
テーブルの上に肘を置き、組んだ手を口の前に置いて難しい顔をしていた。
何を考えているかは分からないが、多分、俺と同じ様な考えに辿り着いていると思う。確証はないが。
そう思うだけで、少しだけ心強くなった。
意識を内に集中し、考える。
どうやって淳達を無力化させるか。
銃を突きつけてお互いをロープで縛らせる? 多分、一番手っ取り早い方法だ。だが確保したロープは十人の手足を縛れる程長さが無い。
それにあいつ等が素直に従う訳が無い。数の利もあるだろうから抵抗してくる筈だ。
じゃあ他に方法は?
説得する? お前等が笑顔を向けていた相手は銀行強盗で喜太郎さんを殺し、俺達を軟禁した悪党だと。
安全で合理的な方法だが、先程のトイレでの正則とのやり取りを考える限り、簡単に行くとは思えない。
正則達の中で、強盗二人は腐った世の中に反抗する、言わばダークヒーローの様な存在になっている。
今の状況を見れば、その答えに辿り着くのは難しい事じゃない。
俺も昂も口は達者な方では無い。
むしろ淳や響の方が、口が上手く口論になれば尤もらしい事を並べ、強盗二人を庇い、俺達を悪者扱いするだろう。
正論をぶちまけても、軽くあしらわれるだけだ。口による説得も駄目だ。
じゃあ他には? 拘束も無理、説得も無理。他に方法はあるか?

『・・・・・・殺せばいい』

―――ゾクッ!!
背中を冷たい汗が流れた。
一瞬、脳裏で悪魔が囁いた。いや違う、今も囁いている。
『殺せばいい、全員。強盗の所為にすれば誰も怪しまない。俺達は惨劇から生き残った悲劇のヒロインだ。そういう立場も悪くないと思わないか?』
悪魔の嘲笑が頭の中で何重にもなって響く。
頭が割れそうなくらいに痛い。いっその事、ハンマーでカチ割ってくれた方が楽と思うくらいの鈍痛が襲う。

『殺せ、全員、殺せ!!』

悪魔がまた囁いた。
考える。
強盗二人を捕らえ、殺す。
状況を考えれば正当防衛が成り立つ。
喜太郎さんが殺され、狭い宿に軟禁され、精神的にも肉体的にも追い詰められ、生命の危険にも晒されている。
その状態での殺人なら正当性が証明される。

『だろ? 強盗だけでも殺せばあいつ等も目を覚ます。それでも駄目だったら・・・分かるな?』

ニヤリと笑う悪魔。
だが、俺は首を横に振った。
駄目だ。強盗二人を殺しても何の解決にもならない。
強盗を殺しても、正当防衛が証明され俺は無罪になるかもしれない。
だが、それは強盗二人が犯罪を正当化したのと同じじゃないか。
どんな理由があろうと殺人が許されて良い訳が無い。
どんな理由があろうと、犯罪を正当化して良い理由にはならない。
あいつらと同じ様になっては駄目だ。
だが打開案が浮かばないのも事実だ。
強盗も淳達も無力化出来る方法。
その二つが揃って初めて勝利を掴む事が出来る。
しかし、幾ら考えても良い案は出なかった。自分の無能さが歯痒い。
時間だけが只虚しく過ぎて行く。
幸か不幸か、結局一度もチャンスが訪れないまま、夜になった。
幸があるとするなら、外は未だに酷い吹雪と言う事だけ。
この様子では明日も吹雪かもしれないと、翔子ちゃんは言った。
強盗を捕らえるチャンスが増えるのは嬉しい事であるが、それまで自分の精神力が持つか、少し不安になってきていた。
犯罪者と同じ空間に居続ける事によるストレス。
親しかった友人がその犯罪者と仲良くお喋りしている事に対するストレス。
焦燥感が恐怖心を増長させ、心の中の闇を深く染めていく。
発狂せず、心を折らず、狡猾に相手の隙を狙い続けている自分は第三者から見たらかなり切れ者に映るかもしれない。
だがそれもいつまで持つか・・・。
出された夕食も殆ど口にする事が出来ず、食べた分も無理矢理、水で流し込んだ様なもの。
食わなければいけない事くらい分かっている。だが、食う気になれない。
夫を殺した相手にご機嫌伺いをする人間が作った料理を美味しく食べる事なんて、普通なら無理だ。
口の中に残る食事の味を水で流し込み、横目で淳達を見る。
笑顔で、美味しそうに出された料理を食べている。
笑いが零れ、酔いの所為か、話も盛り上がっている。
悪魔の晩餐会を見ている気分だ。冗談抜きで気が狂いそうだ。

「達也、何処行くんだ?」

席を立った俺に昂が不安そうに声を掛けてきた。

「・・・すまん、気分が優れないから部屋に戻る。お前も顔色悪いぞ?」

誰かに聴こえる様に少し大きめの声で言った。
この場から逃げる為の口実。
たまたま俺達が座る席の近くを通った翔子ちゃんが立ち止まり、昂の顔を覗き込んだ。
殆ど口をつけていない食事と相まって、俺も昂も気分が優れない状態にあると、思わせる事が出来た事を、翔子ちゃんの表情から理解した。

「お粥か何か、用意しましょうか?」

翔子ちゃんが気を利かせてくれたが俺も昂も丁重に断り、早足に食堂を後にした。
廊下の冷たい冷気が全身を包み込んだ。
俺と昂は廊下を進み、階段を上ろうとした所で降りてきた次郎さんと鉢合わせた。

「あぁ、すいません、すいません」

次郎さんは何度も頭を下げ、弱々しい声で何度も謝って来た。
気にしないで下さいと、言うと愛想笑いを浮かべ、もう一度会釈してから食堂に戻っていった。
表情に出さなかったが、かなり不気味だった。浮かべた愛想笑いも、相手の心情を伺う様な狡猾な笑みに見えた。

「達也?」

「・・・今行く」

次郎さんの背中から視線を前に戻し、昂の後を追った。
扉の前で別れ、自分の部屋に入ってベッドに倒れ込む。程良く冷えた布団が心地良い。このまま寝てしまいたい気分だ。
頭を使い過ぎたのと、ストレスで今までに感じた事無い程の疲労感が全身を包んでいた。
時刻は七時過ぎ。いっその事、現実から逃げ出して惰眠に身を沈めるのも良いかもしれない―――そんな考えが脳裏を掠めた。
―――コンコン。
控えに扉がノックされる音が思考を中断させた。
昂か?
身体を起こし、扉の前まで歩いていき、ゆっくりと扉を開ける。
昂の姿は無い。代わりにさっき階段で会った次郎さんが、上目遣いで俺を見つめていた。
えも言われぬ不気味さが警戒心を刺激し、思わず半歩後ろに下がった。

「何ですか?」

極めて平静に、俺は言った。

「貴方と昂君は何か、他の皆さんとは違うなと思いまして。貴也さんと竜太さんに心を許してないなと思いまして」

心臓の速度が跳ね上がる。全身から嫌な汗が噴き出し、顔が火照る。

「・・・別にそんな事ありませんよ」

声が震えたりしない様に口の筋肉に神経を集中させて言い放った。
しかし次郎さんは納得していない様で、じっと此方を見てくる。
絡みつく、蛇の舌の様な視線。

「正直に言って下さい。実を言うとね、私もあの二人が怖くて・・・だって強盗をして、更に人も殺している。あのお二人と仲良くしている皆の気が知れないんですよ」

なんだって?
次郎さんが言った事を頭の中でもう一度繰り返す。聞き間違いじゃないよな?
次郎さんも俺達と同じ側なのか?
今日一日の彼の様子を思い出す。剛彦さんと仁美さんと同じ席に座り、談笑していた。
剛彦さんと仁美さんは何度か強盗二人と話をしたりしていたが次郎さんは怯えた様に殆ど席から離れなかった。
急に目の前に居る冴えないサラリーマンが心強い味方に思えた。
剛彦さんでないのが少し残念だったが贅沢は言っていられない。
味方が一人増えただけでも有り難いと思うべきだ。

「どうなんですか? 達也君?」

再度、次郎さんが聞いてきた。

「実は、俺も・・・」

そう思っていました。そう言おうとした時、得体の知れない不安に襲われた。
多分、第六感とか、直感の類だと思う。
危険信号が頭の中で激しく鳴っていた。
何に対して? 決まっている、目の前の次郎さんに対してだ。
次郎さんはこう言った。

『貴也さんと竜太さんに心を許してない』と。
この言い方が妙に引っかかった。
他に幾らでも言い様があるだろう。警戒しているや、敵愾心を持っているなど。
次郎さんの言い方はまるで心を許していないのを責めている様に聴こえた。

「俺も、なんですか?」

次郎さんがニヤリと笑った気がした。
 粘着質の巣を張り、獲物が掛かるのをじっと待つ蜘蛛を見ている様な錯覚に陥る。全身が凍る程の寒気がした。

 「俺は、只・・・無事に家に帰りたいだけですよ」

 「・・・そうですか」

 次郎さんは残念そうに呟き、失礼しましたと言い残し、一階に降りて行った。
 次郎さんの背中が見えなくなるまで俺は目が離せなかった。
 視界から動くものが無くなってから漸く深く息を吐き、額に浮かんだ汗を拭った。
 多分、次郎さんは俺と昂が強盗二人を捕まえようとしている事に気付いている。
 裏付けが欲しかったんだろう、俺か昂の口から。
 味方のフリをして近づき、相手の本心を燻り出し、それを餌にして自分が甘い蜜を貰い、それを食らう。
 俺なんかより、よっぽど狡猾じゃないか。

 「この状況でそこまで頭が回るなんて」

 思わず口に出た言葉。それほどまでに次郎さんは恐ろしかった。
 気付くのが後少し遅かったら、第六感が働かなかったら、俺は次郎さんに全てを話し、そして殺されていたかもしれない。
 誰も信用出来ない。少なからず、昂以外は。あいつは大丈夫だ。
 大学からの付き合いだが、他人を裏切る様な奴じゃない。俺はそれを誰よりも理解しているつもりだ。
 例え、こんなイカれた状況でも。
 昂は大丈夫だ。
 昂は大丈夫だ!
 昂は大丈夫だ!!
 昂は大丈夫だ!!!
 のぼるはだいじょうぶだ。
 ノボルハダイジョウブダ。
 呪文でも唱える様に俺は頭の中で同じ言葉を繰り返した。
 不安を打ち消す様に。自分の中の醜さを否定する様に。
 そうだ、昂に次郎さんの件を話さないと。昂の部屋は廊下を挟んで斜め前。
 ノックをすると直ぐに扉が開いた。
別れて十分も経っていない昂の顔が、数年も会っていなかったくらい久しぶりに思えた。

 「どうした? 何かあったのか?」

 次郎さんとのやりとりを話すと昂は悲しそうな顔をした。

 「いいか、昂。この先、誰かが味方のフリをしても絶対に信じるな。味方はお互い、一人しかいないんだ」

 あえて俺だとは言わなかった。昂に俺が味方だと言う事を自発的に認識させる為に。
 昂は頷き、扉は閉まった。
 部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ俺は再び、自己嫌悪に陥った。
 昂を信用していない訳じゃない。
 信頼しているからこそ、試す様な、回りくどい風に言ったのかもしれない。
 ―――言い訳だ。
 俺は次郎さんとのやりとりで、いやそれだけじゃない。トイレでの正則とのやりとり、強盗と仲良くする皆を見て、誰を信用していいか、分からなくなっていた。
 自分すら信用出来ない。昂を試す様な真似をした自分をどうして信じられるのか。一番の友人を試した自分を。
 激しい自己嫌悪と疑心暗鬼が思考能力を低下させ、考える事を許してくれない。
 意識が溶ける様に薄れて行き、気付いた時には意識を失い、夢の中を彷徨っていた。

 ふと、目が覚めた。
 意識は不思議とはっきりしている。寝る前の状況もしっかりと覚えている。
 時計を見る。時刻は零時を回っていて、零時三十分。
 五時間近く寝ていた様だ。
 喉が妙に渇いた。水が飲みたい。
 覚束無い足取りで廊下に出て、階段を降りて、食堂に入った。
 食堂は電気も暖房も消され、誰も居なかった。全員、自室で呑気に就寝中の様だ。
 電気を付けて勝手に厨房に入り、コップに水を汲んで一気に飲み干した。
 冷水が喉を通って胃に到達し身体を内と外から冷やす。
 コップを置き、部屋に戻る為、食堂を出た。
 ―――足が止まる。
 何を思ったか、もう一度、食堂に入った。
 誰かが居た訳じゃない。
 俺が食堂に戻ったのは、鼻を突く、咽返る程の酒の匂いの所為だ。
 どれだけ飲めばこれ程酒の匂いが残るのだろうか。
 十本や二十本なんて簡単な量じゃない。もっと多い、何十本と言う量の酒を飲まなければ匂いが残る事はないだろう。
 もう一度厨房に入った。あった。ゴミ袋に入った数え切れないほどの酒の空き缶。
 何故、そんな事に意識が行ったか。
 簡単だ、それだけの量を飲んで酔わない奴なんて中々居ない。
 つまり、俺と昂を除く全員が泥酔とまで行かなくてもかなり酔った状態にあったと言う事。
 その状態で寝れば、簡単には起きない。つまり、チャンスと言う事だ。
 強盗二人を捕まえるチャンス。寝込みを襲えば成功の確率は高い。

 今だ、今しかない。
 二階に戻らず、隠してあったロープとスキーのストックを持ち、今度こそ二階に戻る。
 降りてくる時は気にもしなかった木の軋む音が今は妙に大きく聞こえた。
 耳障りなこの音が全員の耳に届き、俺の行動が全て筒抜けになっているんじゃないかと錯覚を起こす。
 そんな訳無いと必死に言い聞かせ、額に汗を浮かべながら二階に到着。
 犯人の部屋は階段の直ぐ脇、空いていた二部屋。
 俺は暴れる心臓を強引に落ち着かせノブに手を掛ける。
 ・・・回らない。
 鍵が掛かっている?
 チャンスにばかり頭が行って、こんな初歩的な事すら忘れていた。
 考えれば分かる事じゃないか、このくらい。誰だって部屋に鍵くらい掛ける。
 いや、待て。もしかしたらマスターキーがあるかもしれない。
 旅館とか宿とかは緊急事態の時の為にマスターキーか、スペアキーを用意している筈だ。
 何処にある?
 入口にあるカウンターの中か?
 もしくは喜太郎さん達の住居空間?
 どちらかにある可能性は高い。階段を下りて一階に戻った俺は先にカウンターに向かった。
 住居空間には翔子ちゃん達が居るだろうし、それに喜太郎さんの死体もある。
 出来る事なら入りたくない。
 カウンターに入り、廊下の淡い光を頼りに鍵の置いてある場所を探す。出来るだけ音を立てない様に、同時に周りの音を聞き逃さない様に。

 「あった」

 思わず声が出て、慌てて口を閉じ、周りを見る。
 誰も居ない。時折、風がガラス戸を叩く音だけが響いた。
 鍵はカウンターの下、木箱に保管されていた。中には部屋の鍵と同じ形の鍵が部屋の数だけ入っていて、部屋番とスペアと書かれたタグが付けられていた。
 犯人二人の部屋は一号室と二号室。
 二つの鍵を手に俺は再び二階に戻った。
 音を立てない様に、ゆっくりと鍵穴に鍵を差し込む。
 ―――カチリッ。
 鍵を解除した音が静かな廊下に大きく響いた。一瞬、身体が強張る。
 誰かが動く気配は無い。誰にも気付かれていない。
 左手のスキーのストックをぎゅっと握り締める。肩に掛けたロープを直す。
 右手でドアノブを握る。汗がびっしょり浮かんでいるのが分かる。滑らない様に慎重にノブを回し、扉を少し開けた。
 同時に艶やかな声が耳に飛び込んできた。
 女性の喘ぐ声。
 えも言われぬ嫌悪感が全身を貫いた。
 扉をもう少し開けて、中の様子を伺った。
 二十年生きてきて、今まで観て来た物の中で最も醜い物を見た。
 声の正体は響だった。
 俺の視界に映った場面。響と強盗の一人である竜太がSEXをしているシーンだった。
 二人とも衣服を纏わず、響は四つん這いになり、竜太が背後から響を犯していた。
 最初、無理矢理やられているのかと思った。だが違った。
 響の喘ぎ声は歓喜の色に染まり、喘ぎ声の合間に相手を求める台詞を口にしていた。
 一心不乱に腰を振るう竜太、快楽に身を任し、相手を求める響。
 激しい憎悪と共に殺意が湧いた。
 だがそれ以上に濁流の如く嘔吐感に襲われた。
 俺はノブから手を離し、階段を極力、音を立てない様に駆け降り、トイレに飛び込んだ。
 喉が痙攣し、意識とは無関係に口から空気が漏れ、洗面台に手を着いた時には吐瀉物を撒き散らしていた。
 半分以上が胃液の吐瀉物は苦かった。喉が焼ける様に痛い。鼻を突く酸っぱい臭いが気持ち悪さを増幅させる。
 吐くものが無い筈なのに、嘔吐が止まらない。全身の水分を全て吐き出したんじゃないかと思うくらいに吐き出した所で、ようやく吐き気が止まった。
 蛇口を捻り、勢い良く出た水で口の中を濯ぐ。
 一口だけ水を飲んで、焼けた喉を少しでも楽にする。
 水か、残った吐瀉物か分からない物を袖で拭い、肩に掛けたままだったロープを投げ捨てる。
 ふざけんな!!
 声に出なかった悲痛の叫び。
 なんで、響は強盗とSEXなんてしていた!?
 相手は人殺しで、強盗だぞ!?
 好意を寄せる様な相手か!?
 それとも無理矢理やられている内に情が移ったのか!?
 二人の醜いSEXのシーンを思い出したらまた激しい憎悪と殺意が湧いてきた。
 殺してやりたい。どいつもこいつも。犯罪者に肩入れする奴全員!!
 抑えきれない殺意が心の闇を急速に広げていく。
 同時にどうしようもない虚無感が湧きあがって来ていた。
 自分がやろうとしている事は本当に意味があるのか。
 強盗を捕まえて、その後どうなる?
 ・・・どうでもいい。
 先の事なんてどうでも良い。強盗を捕まえる。それで良いじゃないか。
 投げ捨てたロープとストックを拾い上げ、隠してあった場所に戻し、階段を上がった。
 自室に戻り、ベッドに腰掛け、背中から横になる。
 廊下と違い、暖房が効いて暖かい室内に居ると自然と思考が鈍る。
 眠気が押し寄せ、視界がゆっくりと闇に包まれた。
 
 ドアと叩く音で目が覚めた。
 以前にも似た様な事があったなと思いながら、上半身を起こし、そういえば二日も風呂に入っていなかったなとくだらない事が頭の片隅で自己主張してくる。
 目を擦り、ベッドから降りて、扉の前まで歩いていく。
 「おはようございます、達也さん」
 翔子ちゃんが昨日と変わらない笑顔で俺を出迎えた。
 瞬間、嘔吐感が込み上げてきたが表情には出さず、必死に堪える。
 昨日観たSEXシーンが脳裏に蘇る。
 あの二人は今、何をしているのだろうか?
 想像もしたくない。
 朝食の準備が出来たらしく、俺は昨日と同じ様に翔子ちゃんに連れられ、食堂に向かう。
 食堂には俺以外の全員が既に集まっていた。
 響と竜太の姿もあった。二人は笑顔で隣同士に席に座り、楽しそうに食事を満喫していた。

 「おはよう」

 昂の前に座り、挨拶を返し、既に準備されていた朝食を無理矢理、胃に流し込む。
 味なんて殆ど分からない。今なら豚の餌でも頬張れそうだ。
 そこで、ふとカーテンが開かれているのに気付く。
 眩しい朝日が部屋に差し込み、蒼い空と一面の銀世界が飛び込んできた。
 絶望の快晴。こんな時に限って的中する天気予報に焦りと苛立ちを感じ、コップを持っていた手に力が入る。
 結局、強盗を捕らえる事が出来ずに、この日を迎えてしまった。
 このまま、俺達は殺される?
 それとも、強盗は俺達を残して逃げる?
 生きて家に帰られる確率は五十%。
 後者である事を望みつつも、何も出来なかったくせに生きる事だけは望む、自身の醜さに嫌悪感を抱いていた。
 どちらにしても、今日、この軟禁生活は終わる。きっかけさえ訪れれば。
 きっかけは思いもよらない形で訪れた。
 聞き慣れない、機械音が遠くから響き、全員がほぼ同時に音のする方に顔を向けた。

 「除雪機の音だわ」

 晶子さんがポツリと言った。
 そういえば、強盗が来る前に除雪機が来るのは今日辺りと話していたのを思い出す。
 除雪機が除雪を終えれば、下の街まで車で行ける様になる。
 いっその事、隙をついて昂と二人で逃げ出した方がいいんじゃないかと思えてきた。
 他の連中なんてどうなってもいいと、思えてきた。
 強盗の一人に身体を許した響。強盗二人を庇う様な発言をした正則。俺を陥れようとした次郎さん。
 どいつもこいつの結局は自分の事しか考えていない。
 自分さえよければ、他の奴なんてどうなっても良いと思っていやがる。

 あぁ、そうさ、俺だってそうだよ。
 だが俺は違う。少なからず、最初は全員の為に・・・生き残る為に行動していた。
 お前等みたいに恐れて何も行動しなかった訳じゃない。
 俺と昂は生きる為に必死だった。

 そう、必死だった、俺も昂も―――。

 「昂!?」

 誰かが叫んだ。声の主が淳だと気付いた時には前の席に座っていた筈の昂の姿は無く、後ろで扉が乱暴に開かれる音がした。
 ・・・昂?
 誰かが俺の横を風の如く通り過ぎて行った。反射的に立ち上がり、俺もその影を追った。
 何故、昂は突然、此処から出て行った?
 答えは直ぐに分かった。昂が向かったのは玄関。
 俺と前を走る強盗の一人、貴也が到着した時には玄関の扉は開いていて、昂は除雪が済んでいない道を我武者羅に、必死に、走っていた。
 腰程まである雪の道を容易く走れる訳が無く、昂はまだ十メートルも進んでいない。
 除雪機はまだ遥か彼方。

 「あの小僧・・・。おい、竜太!! ハジキ持ってこい!!」

 貴也が叫んだ。ハジキと言う聞き慣れない単語が最初何を指しているか、分からなかった。
 ハジキと言う単語が拳銃の隠語である事を思い出した時には全身から血の気が引いていた。

 「昂!! 戻ってこい!!」

 気付いたら、叫んでいた。必死に叫んだ。おそらく、言葉にすらなっていなかったかもしれない。
 背後でドタドタと複数の人間が走る音がした。全員が此処に来たのか、それとも淳達だけなのか。どっちでも良かった。
 俺は只、叫び続けた、戻って来いと、今なら間に合うと。
 貴也に撃たないでくれとも叫んだかもしれない。

 「貴也さん」

 竜太の声がした。視界の隅で、竜太が貴也に黒い塊を渡したのが見えた。拳銃だ。
 貴也は俺の前に出ると右手を昂に向けた。
 昂はまだ三十メートルも進んでいない。
 耳を貫く、発砲音が響いた。
 その時、俺はなんて叫んでいたのか、自分でも分からない。
 やめろと叫んだかもしれない、昂の名前を叫んだかもしれない。だがその声は銃声に掻き消されて、昂にも、誰にも届かなかっただろう。
 拳銃から発射された人の命を容易に奪う鉄の塊は昂に向かって真っ直ぐに進み、後頭部に直撃した。
 白と蒼だけの世界に突然、赤が生まれた。
 昂の頭部は吹き飛び、昂の身体は前のめりに倒れた。
 銃声の余韻と除雪機の音以外聞こえない。それすら、無音に思える程の、静寂。
 ―――薔薇だ。
真っ白な雪の上に、真っ赤な薔薇が、咲いた―――


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